最終更新日2022.5.5
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      作業をしながらYoutubeを見ていたらこの動画がおすすめに出ていました。

      すげ~~~~

      なんか「 コ レ ジ ャ ナ イ 」感は半端ないけど、これはこれで良いなぁ。

      今日も天気が良くて窓を開けてホルストの惑星なんかを丸一日聞いてました。気持ち良い風(breeze)がカーテンを揺らす。

      次の瞬間「ブ~~~ンッ!!」と低くて響く羽根の音。
      スズメバチかアブか、なにかと思ってその刹那、身を低くしました。

      カーテンをはたいたら上手く外に戻って行って一安心しました。
      こんな時期に大きな虫はいなかな?
      冬眠明けのカナブン??

      ドローンというと、なんかそのカナブンと被って見えてしまいます。
      この動画は4個のプロペラx2ですね。
      うるさいのかな?

      ドローンがチープに見えてしまっている現状、
      何か凄いテクノロジーという感じがしません。

      飛ぶっていうのはもっと大袈裟な装置が必要なものなのです。
      翼なり、デッカイプロペラのヘリなり、
      120年前の装置はもっとでっかく作っていたのです。
      レシプロエンジンは徐々に大きく重くなり、
      人が飛行機で飛んで約50年でジェットエンジンにまでたどり着き、
      ロケットエンジンも開発されました。

      比べると安っぽく見えるんですね。

      でも、よくよく考えると、プロペラとジャイロで
      姿勢検知と動力の配分を瞬時に行っているのは、
      「コンピューター技術の進化」の一言に尽きるのでしょうか。

      レシプロエンジン、自動車の調べ物をしながらこの動画を見つけました。
      これが、ヘリコプターより「安価」だろうから、何か勘違いして
      安っぽい技術に見えてしまう。

      でも、これを集積回路なしのレシプロ技術だけで実現するとなると、
      とんでもなく厄介なのでしょうね。

      コレジャナイ感がしたというのは、
      まずはブレードランナーのポリススピナーとの比較です。
      これは約40年後のロサンゼルスの上空を飛んでいるシーンです。

      今から40年後の、2019年の11月、環境破壊が進み、
      乾燥しきったロサンゼルスではなく、雨が非常に多く、
      工場の煤煙などでスモッグが晴れない環境になっています。

      ん?

      今、2022年5月ですね。

      ん?????

      ぬぉ~~~~~~~~過去じゃないですか!
      2019年!!!

      私が中学二年生だったは1982年だったのです。

      時が過ぎるのは早いもんですね。
      まあ、とにかく、このポリス・スピナーや
      タイムマシンのデロリアンやエンドラの森の中の
      スピーダー・バイクみたいなのとは飛び方が違いますね、
      というお話でした。

      それにしても、40年後の未来は1982年から見て、
      今年がどんぴしゃりの2022年なんですね。
      ブレードランナーは何度もソフトを購入しています。
      一番新しいのはYoutubeのファイナルカット版ですね。

      原体験が1982年当時のVHSで見たバージョンです。

      だから、冒頭シーンの変な独り言は絶対に必要です。
      これが原作を読んでいれば余計な事を言わなくても分かるのだったら、
      確かに監督の拘る様にナレーションは無い方が良い。

      所が原作は全くの別物です。
      ブレードランナーは監督が出来きずに、色んなスタッフの
      勝手な思い込みや都合が入ったお雑煮、あるいは闇鍋だったのです。

      そこが、近未来のロスの人種が混じりあい、言語も混じりあって
      混沌とし、混沌都市、混乱し、誰もガバナンスを取れないでいる
      未来の姿そのものなのです。


      うどんヌードルを食べながらいうのですね

        The Charmers name was Gaffe
        胡散臭い野郎の名前はガフ。

        I`d seen him around .
        以前、そこらへんで見たことがある。

        Brian must have upped him to the bladerunner unit .
        ブライアンは彼をブレードランナー部隊に引き上げたにちがいない。

        that gibberish ,
        例のジブリッシュ、

        he talked with City speak gutter-talk,
        ガフが話してるのはロスで使われてる、ガァタートークだ。

        a mishmash of Japanese , Spanish , German , What-have-you.
        日本語、スペイン語、独語、他の色んなやつの混じったやつさ

        I didn`t really need a translater .
        俺はほんとは通訳は必要ないんだ。

        I knew the lingo every good cop did
        腕っこきの警官なら俗語は誰でも知ってるように俺だって知ってるさ

        but I wasn't  going to it easier for him
        だけどガフとはそう簡単にはしたくはなかったんだよ

      ・City :全住民、集合体としての市民。
      ・gutter-talk:黒人英語、貧民街の言葉。
      ・mishmash:寄せ集め、ごちゃまぜ。

      What-have-you:等々、など、
      他に思いつく限りの色々なもの
      話の聞き手側が思うものすべて。
      ・ジブリッシュ
      スパニッシュだとか、イングリッシュだとか、
      ~~ニッシュなどっかの国風で意味不明な言語
      :チンプンカンプンだなと吐き捨てている俗語。
      スラングで「うっせいわ」みたいな一言を吐き捨てている、
      あまり意味はない言葉、掛け声。

      スタジオ・ジブリ

      まっ、やっぱりこの独白は居るでしょ?
      一息ついて、Twitterを観る。

      お孫さんが暴れたご様子、羨ましい。
      弟の孫もそろそろ入園だったかな?
      私には孫はこの先も出来ません。

      デッカードのセリフが思い浮かぶ。
      分かれた女房の話。

      人それぞれの人生だし、私なりにはこれでも頑張ったけど
      つくれなかったものは仕方ない。
      時間は決して帰ってこない。
      ただ、黙して噛み締めるだけです。

      もうなくなってしまった親しかった先輩と私は、
      ブレードランナーが大好きにで、年に数度は
      ビデオを見ては談義をしておりました。

      私は彼にブレードランナーのセリフを最後に送った。
      それで良かったのかとたまに思い出す。
      その事を考えると毎度、後悔してどうにでもなる訳じゃないし、
      私の本心はきっと伝わったはずだと考える事にしてます。

      ヲタキングの岡田さんのブレードランナー解説はなかなか
      いとをかしです。

      なるほどねぇ、そういう意味があのシーンにあったのか。
      だから、あれは何々だ、という解説の見識の深さにおそれいります。
      でも、1982年版が原体験の私にとっては、
      誰がレプリカント云々はどうでもいい話です。

      芸術家がアートを目指した映画は、同じものでも全く面白くない。
      古今東西、そんなものばかりです。
      残念な話ですが、2045版は私は駄目でした。
      もう、とにかく退屈で詰まらなくて、倍速でも駄目で、
      飛ばし飛ばしで見て、結局、最後まで見てません。

      いわゆる、蛇足という奴です。
      あれはねぇな、ないねぇ。
      デストピアもの、もうウンザリですよ。まったく。

      ドローンの制御と同じコンピューターを使った映像ですけど、感動が無い。
      感情がそこに流れていない。
      シド・ミードはノリノリで描いた頼んでもいない
      「マットペイント」の映像は素晴らしかった。
      レイチェルも出てこないしさ。

      いかん、遺憾。
      余計な事を思い出してしまった。
      この話は終わり。

      少し前から、車の事を調べています。

      前回の日記でも、その一端を書いております。
      最近引っかかってるのはエンジン開発とかの事なのです。

      飛行機はライト兄弟から僅か数年で、飛行の技術がどんどん発展していきます。
      このあたりの事を調べていたんですね。

      同時に車も発展していきます。
      1830年代には蒸気機関が実用段階になり、
      蒸気機関車の路線の敷設が始まっていきます。

      その後、自転車が登場し、大流行していきます。
      自動車の発明をしたカール・ベンツも自転車大好きマンでした。

      自転車は今でも欧州では大人気のスポーツですが、
      ルーツは19世紀の中盤から興ったのですね。
      そういう背景があるからツールドフランスは過熱するのです。

      自転車の技術はステアリング、ブレーキ、鋼管フレームによる
      ショック吸収、ホイールの生産と自動車に欠くことのできない
      基礎技術を発展させます。

      そして、エンジンは様々な構造のモノが発明されますが、
      これが自転車とくっ付いて、Auto Bikeを作ろうと思うのは自然な流れです。

      初期の自動車を見て、馬車に動力を付けたものと思いがちです。
      私は曖昧にそんなイメージでした。
      所が、実のところ、自転車の技術を集めた、二輪車、三輪車、
      そして4輪車となって、馬車のような形へ発展していきます。

      カール・ベンツは現代の4サイクル・エンジンの基礎の
      構造を考案し、また殆ど同時にダイムラーも同じような
      エンジンを作り、意見交換をし発展します。
      それで、ベンツとダイムラーが今日の自動車の発明をした
      と解釈されているのが一般的です。

      これが1885年くらいの話です。
      この形式以外のものもあり、西洋の各地で、数か月、
      数年おきにエンジンを各自で開発したり、ダイムラーから仕入れたり
      ライセンス生産する企業が1900年前後に雨上がりのタケノコのように
      出てきます。

      それは下にWikipediaのコピーを貼っているので、
      参考にしてもらえればより詳しく分かります。

      ただ単にコピペしてて簡単そうに見えるかもしれません。
      ところが、毎度大変なんですよ。
      こういう作業はこういう作業なりに。
      読んで必要な部分だけ抜かないと、このブログの
      文字制限にも引っかかります。
      ちなみにソースで見て半角英数字で3万文字以内です。

      既に何度も1ページ15000文字の制限に引っかかっております。

      世界の自動車産業の企業の数からみれば、ほんの一握りの
      自動車関連の企業しかピックアップしていません。
      文字数の制限もあるので、先に発展してきた企業が中心です。

      企業ごとに情報量に差がありますが、
      リンクはしてありますので、気になる人が居らっしゃいましたら、
      リンクからジャンプして読んでください。

      Wikipediaには結構色々書いてある。
      しかし、書いてない事も多い。
      やっぱり専門書を何冊も読むのは良い事です。

      一方で、多言語で書いてあるので、英語、ロシア語、ドイツ語と
      自動翻訳で読む方法もあります。

      そうすると、それぞれの言語で足りない部分を補えることは良くあります。
      また、カテゴライズで漏れがちょくちょくあるし、
      ミスタイプしたり、元の原文が例えば、969を696と間違えて書いてある事もあります。
      そういうのを見つけるたびに自分も編集者になりたいなと思うのです。
      まあ、まだちょっとGoogle翻訳やGoogleマップみたいに
      気軽に編集しようという気持ちにはなっていません。
      いつか、やってみたいですね。

      そういう訳で、カテゴライズの穴で漏れてる情報を探したりするとなれば
      色々知恵を絞らないとならないので、
      Wikiのカテゴライズとこのページの比較をしてみれば、
      その一端は分かろうかと思います。
      ただ、それをやってなんの得も無いと思うので、やらなくていいです(笑

      自動車レストア番組の話

      自動車の車種だとか、メーカーの歴史だとかを
      時々気になって、それぞれのメーカーや車種で
      断片的にたまに読んできています。
      昔ならそういうものは雑誌で特集や、毎回の記事でよんでいたわけですけど。

      そして、断片的に読んでいてもそこには「ストーリー」はないので
      読んだそばから忘れていく。
      何度も同じ文献を読んで、ようやく覚えていきます。

      今回、延々と自動車史を網羅的に読んでいますとですね、
      見えていなかったものが見えてきます。

      例えば、大好きな「カーSOS」の話です。
      カーSOSはイギリスの自動車関係の番組です。
      沢山の古い車を修理し、オーナに驚きと喜びと感動を届け、
      見ている視聴者までも幸せな気分にしてくれる番組です。

      日本の「イジメ」の見本を見せて一部の人間しか笑っていない
      番組ばかりなのとは比べ物にならない面白さがあります。
      なんの話って?例えば石橋貴明なんてどうしようもないって話ですよ。
      何歳になってもガキのまま。

      イジメてる当人以外、苦笑いしかない。
      調子を合わせて笑ってるだけだ。
      高額なギャラで我慢しているだけの話だって。
      そんなの、見本にしてマネされたら、子供たちが不憫でならない。
      一部、大人でも体のおっきなお友達は石橋みたいなやつはいる。
      運転手にそういうのが多くてウザくて仕方ない。

      打ち合わせなしのドッキリや強要で、それは本気の「蒼い顔」を見せるよ。
      そこにはリアクション芸には無い、本物があるさ。
      だから、腹がたつんですよ。

      出川哲郎の顔も見たくない。
      たまにテレビをつけてCMで見ると、とても嫌な気持ちになる。
      虐めっ子の腰ぎんちゃく、稼げていい事だね。
      それが不愉快だ。

      先日観た懲役先生の動画ですけど、常々わたしもそんな事を
      考えていたので、ついでにちょっと熱くなってしまいました。

      失敬しました。

      さて、話を元に戻しましょう。

      カーSOSの修理工業はバーミンガムにあります。

      ブリテン島のロンドンがある東岸とリバプールの有る西岸の中間くらいに位置しています。
      この昼間位置をミッドランドと言いますが、泥炭が取れる事もあって、
      早くから機械制手工業が発展します。
      19世紀には空が煤煙でおおわれて晴れる事が無かったそうです。
      それでブラックなんちゃらというんですね。

      自動車メーカーの工場の位置を一覧でコピペしていたら、
      そのバーミンガムの近郊の「コヴェントリー」にかなり集中しています。

      自動車工場が多いという事は、その部品製造、ジグ、工具、工作機械
      あらゆる関連産業が集積しています。

      そのベースがあって、あれだけの修理が行えるという事です。
      例えば、シャーシを剥がして「殻」の部分を丸ごと
      他所の工場に持って行って、錆を酸で落とすなんていう業者も
      ご近所に居るという事です。


      また、たとえば「ボルボ」のP1800という車があります。
      これはスウェーデンの車だけど、サー・ロジャー・ムーアが
      TVドラマの「セイント」の劇中で使っています。
      それを気に入って、ムーア卿はリアルでも購入したんだそうです。

      そんなエピソードがあるから、番組で扱ったんですね、、、と、
      それだけでは無かった。

      下の「ジェンセン・モーターズ」の部分を読むと分かりますが、
      スウェーデンのP1800のボディーワークはジェンセンが
      受注生産しています。

      しっかり、地元の産業と結びついた車種選びという事が見えてきます。

      日本車も扱ったりもしてますが、そういう車種選定は
      ますUKの視聴者に親近感を呼ぶでしょうね。



      カーSOS


      むむ!今確認でナショナルジオグラフィックのサイトを覗いたら
      しっかり声優さんの顔写真が出ています。
      ようやく、彼らも分かってきたようだな。
      字幕より、声優さんがやった方が良いし、この二人じゃないとダメでしょう。

      前は声優さんの名前を見つけるのに物すっごい努力を必要としたんですよ。
      このブログで、カーSOSのWikipediaを翻訳したりあれこれしてますが
      そこそこ鉄板の記事になっております。
      情報が無いところから始めましたからね、大変だったんですよ。

      それはどうでもいいんだ。


      自動車史を網羅的に頭に入れて行って100年前の世界に没入してみますと、
      なにか、WW1当時人の思いや、そこから解放された
      レゼニフォル=狂騒の20年代、アメリカならロストジェネレーション、
      グレートギャッツビーの世界だとかの風景が大袈裟な映画セットではなく、
      良い化粧の香り、好みではない香水や、
      薄い皮膚の下の青い毛細血管の肌の色、
      そんなものまで感じ見えるような生身の世界観で見えてきます。

      今と同じような人間が違う時代にも生きていたんだな。


      1922年のお話設定なんですね。
      ちょうど今から100年前の話ですね。
      今もロシアとウクライナの間では争いが収まっていません。

      自動車史的に観ると、ソ連はウクライナに沢山の重要な工場を任せています。
      ウクライナにしてみれば余計なお世話だっただろうと思います。

      自動車工場で爆撃機のコックピットの部材を作れという命令が来たそうですが
      これが軍事関係となると、責任だけが異常に重いというとんでもないものなので、相当嫌がって仕事を受けないように抵抗した様です。

      一方で、ロシアは投資を行ってきています。
      だから彼らにしてみると、「俺の財産」の工場であり、
      「俺の産業」であるので、横取りしやがってという勝手な事を
      考えるのかもしれません。
      感情論であれば、これは説得の仕様がない所となります。

      ウクライナが反意を持たなければ平和だった。
      しかし、それは100年遡っても民族の自立に向けて抵抗していたのですから
      無理な相談というのは当たり前な話です。

      ちょうど100年遡って歴史を読んでみる。
      今年なら、1922年の歴史を網羅的に読んでみる。
      そうすると、色んな思いが駆け巡りますよ。
      例えば、私たちの憲法をどうするのかとか。
      あの時代の強烈な侵略するか侵略されるのかという
      ヒステリックな被害妄想や強迫観念をもう一回、
      考えてみる必要はあるのだろうと思います。

      その結果の改憲論はありでしょう。
      その結果の憲法護持もありでしょう。
      まずは一回、原点から考えてみませんか。

         車に替わる乗り物が空を飛んで当然の時代になるかもしれません。
      1900年前後で、一斉に自動車メーカーが出てきます。

      これは、時代を比較してみると、ガソリンエンジンの仕組みと、
      その周辺の車体の基礎技術などが事前に全部そろって、
      一気に技術が開花していきます。

      これは、このドローンタイプの乗り物も同じに見えます。
      基礎技術がそれぞれ発展してきて、一気に形になった、と。

      この空飛ぶ車の時代に、今までの価値観で良いのでしょうか。
      まさか経済の事を考えたらロシアが愚行に出るなんて誰も考えなかった。
      後になって考えれば、そう考えても良かった事実がいくつも出てきています。

      一寸先は闇という話ですね。
      私もね、まさか、傷害事件の被害者になるなんて思ってなかったし、
      その後の展開もあり得ない事ばかりで、ほんとにキチ〇イっているなと
      改めて思いましたしね。

      資源の話で考えると、ロシアとのビジネスが成立しないと、
      バッテリーの生産に大きな支障が出てきます。
      シベリア鉄道を使ったロジスティックも経済には大きく響きます。
      日本だけで考えると微量でも、中国が使う量が問題になります。

      中国はロシアよりです。
      中国もレメタルの産出が独占に近い種類のものもあります。
      この二か国と上手くやれないと、世界的なSDGsだとか
      自動車の電化というのは急激に速度を落とすか、
      中国の製品が世界を席巻するという事態も考えられます。

      そうなれば、既存の西側諸国はレシプロエンジンに回帰しないとならない。

      そう考えると、トヨタの燃料電池車、水素エンジンは大きな保険になり得ます。
      物理的な機械製造の技術の温存という点でもメリットが大きい。

      ロシアと上手くやっていけなければ、電気自動車は厳しいと感じています。
      ひょっとすると、また時代の舳先が大きく変わるかもしれない。
      Covid-19がWW1だとすれば、あと1,2年で終息するでしょう。
      その後、プランが大きく変わった経済が始まるかもしれない。

      この下の表に自動車史を書き写しながら、そんなことを考え込んでいました。
      私みたいな路傍の石が、何を考えたところで態勢に影響はない事でしょうけどね。



      目次

      ドイツ・ダイムラーベンツG

      ステランティス・ドイツ

      BMWグループ

      フォルクスワーゲンG

      アウディ

      ドイツ6

      ドイツ・トラック
      フランス
      イギリス自動車産業

      イギリス自動車産業2
      イギリス・アストンマーチン

      イギリス・ジェンセン

      イギリス・ボクスホール

      イギリス・ロールスロイス

      イギリス・ジャガー
      イギリス・BMC

      イギリス・ルーツグループ

      イギリス・レイランド

      イギリス・BMH
      イギリス・オートバイ

      イギリス・商用車とトラック

      イギリス・Kit Car・レプリカ・etc.
      イタリア自動車産業

      トラック・イタリア

      オートバイ・イタリア

      オートバイ2・イタリア
      フォード・アメリカ

      ゼネラルモーターズ・アメリカ

      クライスラー・アメリカ

      アメリカン・モーターズ
      AMゼネラル

      アメリカの自動車産業

      アメリカのトラック
      オートバイ・アメリカ

      電気自動車・アメリカ
      スウェーデン
      チェコ
      オーストリア
      オランダ
      ロシアの自動車産業
      ベラルーシの自動車産業
      ウクライナの自動車産業
      日本

      Wikipedia

      自動車業界の「6大グループ」

      May.2022

      6大グループ

      ・フォード
      ・GM
      ・トヨタ
      ・フォルクスワーゲン
      ・ルノー
      ・ステランティス(PSA+クライスラー+フィアット)
      メルセデス・ベンツ・グループ(旧ダイムラーGroup)

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    ドイツ・ダイムラーベンツG

    西暦 etc 企業名 概要
    1871年1883年Benz & Cie.
    カール・ベンツ
    1844年11月25日~1929年4月4日(84歳没)

    1871年、27歳のときアウグスト・リッター(August Ritter)と共同でマンハイムで機械工作所を立ち上げた。

    収入を増やすため1878年、新たな特許取得を目指すようになる。まず、信頼性の高い2サイクルエンジンの開発に取りくんだ。そして1878年12月31日に2サイクルエンジンが完成し、1879年に特許を取得に成功した。


    しかしカール・ベンツが本当の才能を発揮したのはそれ以降であり、その後広く普及する様々な機構を設計し、特許を取得していった。間もなく、速度制限機構、電池を使って火花を発生させる点火装置、点火プラグ、キャブレター、クラッチ、ギアシフト、水を使ったラジエーターの特許を取得している。

    ベンツのマンハイム・ガス動力車両工場 (1882–1883)
    ベンツは1883年にはこの会社を離れた。

    Benz & Cie.
    ベンツは生涯、自転車を趣味としており、その関係でマンハイムで自転車修理店を営むマックス・ローゼ(Max Rose)とフリードリヒ・ヴィルヘルム・エスリンガー(Friedrich Wilhelm Eßlinger)と出会った。

    1883年、3人で産業機械を製作する会社 Benz & Cie.(Benz & Compagnie Rheinische Gasmotoren-Fabrikライン川ガスエンジン工場)を創業。
    間もなく25人の従業員を抱えるまでに成長し、据置型のガスエンジンなども生産しはじめた。


    1886年に自動車に関する最初の特許を取得している。

    1886年1月29日、この自動車の特許 "Fahrzeug mit Gasmotorenbetrieb"(ガスを燃料とする自動車)が DRP-37435 として発効した

    これは世界で最初の
    「ガソリンを動力とする車両」
    に対する特許であり、この日ははじめて
    乗用車が誕生した記念日とも言われている。

    奇しくも同じ年、
    ダイムラーもガソリン動力車両を発明していた。


    1885年の試作車は操縦が難しく、
    公開デモンストレーション中に壁に
    衝突してしまった。

    公道で最初に成功した試験は
    1886年初夏に行われた。

    1886年いくつか改良を加えた2号機を製作し、
    1887年の3号機では車輪を木製にし、
    同年パリの博覧会で披露した

    ベンツを語る上で、妻ベルタが行った世界初の長距離自動車旅行は重要である。

    1888年8月5日、ベルタはおそらく夫に知らせずに2人の息子を伴い、マンハイムからプフォルツハイムに住む母の家まで106kmの自動車旅行に出た。

    燃料のガソリンは当時、薬局で少量ずつのベンジンがシミ抜き用として販売されているだけであり、燃料補給のため各地の薬局に寄る必要があった。時には自ら修理し、ブレーキにライニング(摩擦材)をつけることを考案した。

    いくつかの長い下り坂を経て、彼女は靴屋に寄り、革をブレーキブロックに打ち付けるよう頼んだ。

    夕方には目的地に到着し、ベルタは電報でカールに報告した。ベルタは実際に旅行することでモトールヴァーゲンの可能性を示した。

    今ではこの出来事を祝し、2年ごとにクラシックカーのラリーが開催されている。

    2008年、ベルタ・ベンツの世界初の長距離自動車旅行のルートがベルタ・ベンツ・メモリアルルートとしてドイツ観光街道に選定された

    1885年1885年Daimler Motoren Gesellschaft, DMG
    ダイムラー・モトーレン・ゲッセルシャフト


    ゴットリープ・ダイムラー
    1834年3月17日~1900年3月6日(65歳没)

    1885年に二輪車に取り付けた
    ガソリンエンジンの特許を取得し、
    それは現代の内燃機関の先駆けと
    言える物であった。

    その二輪車は世界初のオートバイと
    見なされ、翌年には駅馬車とボートに
    そのエンジンが取り付けられた。

    このうち駅馬車にエンジンをつけたものは
    世界初の四輪自動車とされ、
    この車はダイムラー・モトールキャリッジと呼ばれている。


    1909年1909年~
    1952年
    マイバッハ
    ヴィルヘルム・マイバッハ
    1846年2月9日~1929年12月29日(83歳没)

    エンジン製造会社
    Maybach-Motorenbau GmbH 

    ゴットリープ・ダイムラーとともにエンジン研究を行っていたヴィルヘルム・マイバッハが 1909年に息子であるカール・マイバッハと設立したのが始まりである。

    ヴィルヘルムは当時のダイムラー社の主任技師として、1901年に発売されたメルセデス第1号車を設計。1909年にダイムラー社を去り、ツェッペリン伯爵のために会社を設立 (Maybach-Motorenbau GmbH) した。飛行船ツェッペリン号に搭載されたV型12気筒エンジンを製作していたのはマイバッハであり、これにより世にその名を知らしめることとなった。

    1920年代から1930年代にかけてマイバッハ社は高級車を設計・販売していた。その位置づけは極めて高く、代表的な車種であるマイバッハ・ツェッペリンの価格は36000RMで、当時のドイツの最高級車であるグローサー・メルセデス770 (41000RM) に次ぐものであった。

    第一次世界大戦後は自動車や鉄道車両用のエンジンを製作した。1935年以降第二次世界大戦終結までドイツ軍戦車のガソリンエンジンは、ほぼマイバッハが独占していた。

    1952年のカール・マイバッハ引退を期にダイムラー・ベンツが 50%の株式を所有するようになり、後に傘下に納められた。その後身であるMTUは鉄道車両、船舶、軍用車両、産業用などに向けたディーゼルエンジンの製造を行っている。

    1926年1926年ダイムラー・ベンツ
    (Daimler-Benz AG)

    1926年、ベンツとダイムラーは合併し、新会社を設立。
    社名をダイムラー・ベンツとし、
    本社はDMGの本拠地であるシュトゥットガルトに置かれた。

    エンブレムはDMGのスリー・ポインテッド・スターの外側にベンツ& Cie.の「BENZ」を刻んだものであった。

    また、新会社はすべての自動車を
    メルセデス・ベンツ
    (DMGの販売ブランド「メルセデス」とベンツ& Cie.の「ベンツ」をとった)
    ブランドで製造することも決定した。

    1926年1926年メルセデス・ベンツ
    「メルセデス」とは、1899年当時、
    ダイムラー車のディーラー(販売代理店)を経営していたオーストリア=ハンガリー帝国の領事であり
    ユダヤ系ドイツ人の富豪である
    エミール・イェリネックの娘
    (メルセデス・イェリネック)
    の名前である。

    イェリネックは自らが販売する自動車に、
    「ダイムラー」という硬い響きを避け
    当時流行していたスペイン風の響きを持つ名を冠した。

    この「メルセデス」ブランドは
    非常に有名になり、ダイムラーは
    1902年に「メルセデス」を商標登録した。

    1926年に、共にほとんど同時期に設立された世界最古の自動車会社であるベンツ& Cie. ライニッシェ・ガスモトーレン・ファブリーク(1883年-1926年)とダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト(1890年-1926年)、両社の1926年の合併により正式に「メルセデス・ベンツ」がスタートした。


    以降社名は
    ダイムラー・ベンツ(1926年-1998年)、
    ダイムラー・クライスラー(1998年-2007年)、現在は
    ダイムラー(2007年-)
    と変更されているがブランド名の変更はない。
    現在はドイツ、シュトゥットガルトを拠点に、乗用車と商用車の製造、販売を
    「メルセデス・ベンツ」で展開している。

     
    1920年1920年ボルクヴァルト
    カール・ボルクヴァルトは1920年、ドイツで共同出資者ヴィルヘルム・テクレンブルク(Wilhelm Tecklenburg)と共に"Bremer Kühlerfabrik Borgward & Co"を設立した。

     メルセデス・ベンツ・グループAG
    「ダイムラー」社名を「メルセデス・ベンツグループ」に変更
    2022年2月2日

    1926年にベンツとダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトが合併してダイムラー=ベンツが設立された。

    1998年にアメリカの自動車メーカーのクライスラーを買収した際にダイムラー・クライスラーと改称し、

    2007年にクライスラーをサーベラス・キャピタル・マネジメントに売却した際にダイムラーAGと改称した。
    (現在クライスラーはステランティスの所有)。

    2021年12月、
    商用車部門をダイムラー・トラックとして分離し、
    2022年2月、メルセデス・ベンツ・グループに
    社名変更した

     
     

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    ステランティス・ドイツ

    西暦 etc 企業名 概要
    1896年1896年アイゼナハ車両製作所
    アイゼナハ自動車製作所
    (Automobilwerk Eisenach 、 AWE)は、
    かつてドイツのアイゼナハに存在した
    自動車製造企業。

    ドイツで三番目の自動車製造である
    アイゼナハ車両製作所
    (Fahrzeugfabrik Eisenach 、FFE)
    として誕生し、100年もの間に幾度も所有者の変更や時代の情勢に翻弄されつつも、
    工場での自動車の生産が現在まで続いている。

    この項では工場を巡る所有者変遷の物語が縦糸となり、横糸として以下のテーマが編みこまれる。

    アイゼナハに1896年に設立され現在まで続くあるひとつの工場の歴史である。

    1898年から現在まではダイムラー、ベンツに次いでハインリッヒ・エアハルトがドイツで三番目に自動車製造をはじめたアイゼナハでの自動車製造の歴史である。

    1928年から1945年までの17年間はBMW社自動車製造業参入の物語である。

    1948年から1991年までの43年間は東ドイツ自動車産業の歴史の一部である。

    1991年からはGM傘下オペル社の歴史の一部となっている。

    1862年

    1899年に自動車製造を開始
    オペル
    オペル (ドイツ語:Opel Automobile GmbH)は、
    ドイツの自動車メーカーであり、
    オランダのステランティス N.V. の子会社である。

    会社設立は1862年であり、
    ヘッセン州
    ダルムシュタット行政管区
    グロース=ゲーラウ郡
    リュッセルスハイムを本拠としている。

    1862年、アダム・オペルが創設(1837年-1895年)。オペルはミシン、自転車の製造を経て、創業者没後、5人の息子達によって1899年に自動車製造を開始。ルッツマンやフランスのダラック車をライセンス生産して技術を修得し、1902年に独自開発車を完成した。

    一方でモーターサイクルも製造したが、後年に事業をNSUに売却している。

    早くからフルライン化を進め、第一次世界大戦勃発以前の時点で、
    「ドクトルヴァーゲン」と呼ばれる小型車から、メルセデスに比肩する高級車・高性能レーシングカーを製造する有力メーカーであった。

    第一次世界大戦後には、大量生産型の大衆車「ラウフプロッシュ」(通称で『雨蛙』の意。

    シトロエンから同社の先行モデル「5CV」に設計が酷似していると訴えられた)などの成功で、当時のドイツ国内最大手自動車メーカーの地位を確たるものにした。

    1920年代後期には、ロケット動力自動車による速度記録達成の試みも行っている。

    しかし、不況下でドイツへのアメリカ資本流入が激化すると、
    1929年には欧州進出攻勢を強めていたGM資本を受け入れ、
    1931年にはGMの完全子会社となった。

    以後の中級車以上の製品にはアメリカ的な設計やデザインの要素が色濃くなり、
    1930年代のドイツにおいては比較的進んだ技術を導入するメーカーになった。

    第二次世界大戦初期にGMはナチスの圧力で権利を放棄し、軍需向けに中型トラック「ブリッツ」などを製造していたが、
    1948年にはGMが経営権を回復した。



    1929年以降はゼネラルモーターズ(GM)の100%子会社となり、イギリスを拠点とするボクスホールとともにGMの欧州ビジネスを担ってきた。2017年にグループPSAが買収。

    2021年、グループPSAとフィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)が合併し
    ステランティスが誕生、その傘下となった。

     
     ステランティス
    ステランティス N.V. (英: Stellantis N.V.)
    (「星で明るくなる」ラテン語の動詞 stello から)

    ステランティス N.V. は、フランスの自動車メーカーグループPSAと
    イタリアの自動車メーカーフィアット・クライスラー・オートモービルズ(以下FCA)
    が折半出資で合併して誕生した多国籍自動車製造会社。

    ステランティス N.V.はオランダで登記されており、

    ・シトロエン
    ・DS
    ・プジョー

    ・フィアット
    ・アバルト
    ・アルファロメオ
    ・ランチア
    ・マセラティ

    ・クライスラー
    ・ダッジ
    ・ジープ
    ・ラム・トラックス

    ・オペル

    ・ボクスホール

    という14ブランドで構成されている。

    N.V.はオランダ語で「株式会社(Naamloze Vennootschap)」の略称である。
    ステランティスの名称はコーポレートブランドとしてのみ使用し、
    14ブランドのブランド名やロゴタイプに変更はない。

     

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    BMWグループ

    西暦 etc 企業名 概要
    1916年1929年BMW
    BMW(ビー・エム・ダブリュー、
    ドイツ語: Bayerische Motoren Werke AG、
    バイエルン発動機製造株式会社)は、
    ドイツのバイエルン州ミュンヘンを
    拠点とする自動車および自動二輪車、
    エンジンメーカーである。

    1916年 - グスタフ・オットーが
    航空機エンジンメーカーとして
    バイエリッシェ・フルークツォイク・ヴェルケ株式会社
    (BFW AG、バイエルン航空機製造)設立。

    1917年 - 社名をBMWに改称。エンジニアのマックス・フリッツを雇用し、その設計によりBMWとしての最初の航空機エンジン「タイプIIIa」を生産。

    1922年 - 航空機の製造を禁止されタイプ「M2B15」を購入してモーターサイクル「ヘリオス」を生産していたバイエルン航空機製造会社(Bayerische Flugzeug Werke 、略称BFW)と合併しモーターサイクルメーカーとなった。社名は引き続きBMW。

    1926年 - 航空機製造部門をBFWとして分離(同社は1938年にメッサーシュミットと改称)。

    1928年 - ゴータからアイゼナハ車両製作所を買収し、BMWアイゼナハ工場とする。

    1929年 - 4輪車"3/15 PS"(BMW Dixi)の製造を開始。英国オースチン・セブンのライセンス生産。

     
     
    ロールス・ロイス
     
    MINI
     
    KTM > ハスクバーナ
     
    アルピナ
     
    ハルトゲ
     

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    フォルクスワーゲンG

    西暦 etc 企業名 概要
    1937年1937年フォルクスワーゲン

    Volkswagen

    フォルクスワーゲン(Volkswagen)は、
    フォルクスワーゲンAGの旗艦ブランド。

    1937年にドイツ労働戦線によって
    設立され、象徴的なビートルで知られる。

    ドイツ語でフォルク(Volk)は「人」と
    訳すことからフォルクスワーゲンとは
    「国民車」と訳されている。

    2020年には、フォルクスワーゲンブランドで約50車種が世界で生産された。

    アドルフ・ヒトラーが
    1934年のベルリンモーターショウで
    提唱した国民車(フォルクスワーゲン)
    計画に従い、著名な自動車設計者である
    フェルディナント・ポルシェによって、
    後のフォルクスワーゲン・タイプ1となる、
    進歩的なメカニズムを備えた流線型の
    リアエンジン小型車が開発された。

    1935年に最初の試作車が完成、
    1938年に発表された。



    フォルクスワーゲン タイプ1


     
     
    ポルシェ
     
    シュコダ
     
    セアト
     
    ベントレー
     
    ブガッティ
     
    アウディ(Audi AG)
     
    ランボルギーニ
     
    ドゥカティ・モーター・ホールディング
     
    イタルデザイン・ジウジアーロ
     
    トレイトン(TRATON)
     
    スカニア(Scania AB)
     
    MAN Truck & Bus
     
    Volkswagen Caminhões e Ônibus
     
    MAN Truck & Bus
     ナビスター・インターナショナル
     


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    アウディ

    西暦 etc 企業名 概要
    1898年1901年ホルヒ#創業期
    1898年11月14日、アウグスト・ホルヒは当時工場長を務めていたベンツ社から独立し、自らの名前の付いた自動車製造工場を設立するに至った。

    ケルンにあったこの工場の設立当初は自動車の修理工場だったが、やがて完成車の設計を行うようになり、生産工場となった。

    1901年に第1号自動車「Type 4/5PS」を完成させる。 翌年には生産拠点をブラウンに移し、さらに2年後の1904年には工場をザクセン州ツヴィッカウに移転する。

    1909年1909年アウディ#創業期
    創業者はアウグスト・ホルヒ
    (August Horch 、1868-1951年)。
    自動車史の黎明期にメルセデス・ベンツで工場長を務めた後に独立、
    ザクセン州ツヴィッカウでホルヒを設立し、
    1901年から自動車生産を開始、当時としては高性能・高品質の自動車を送り出して名声を得る。

    しかしアウグスト・ホルヒは、良質の車を作ることにこだわって経営面への配慮を欠くきらいがあり、
    1909年には経営陣から追放を受けた。
    速やかに自力で別のホルヒを設立、
    自動車生産を開始したが、
    元のホルヒの抗議によって、
    同一社名・車名を使うことを差し止められる。

    この結果、アウグスト・ホルヒは1910年に自社の社名・車名を
    「ホルヒ」から「アウディ」に変更。
    アウディとはラテン語で「聞く」という
    意味でオーディオの語源であり、
    ホルヒのドイツ語での意味と同義である。

    アウディは2612cc(2.6L)4気筒のモデルからスタートし、3564cc(3.6L)、
    4680cc(4.7L)、5720cc(5.7L)となっていく。

    これらは人気を得、スポーツイベントでも活躍した。
    アウグスト・ホルヒは
    1920年にアウディを去った。

    初の6気筒モデルは1924年の4655cc(4.7L)だった。

    1928年、アウディはDKWのオーナーだったイェルゲン・スカフテ・ラスムッセンに買収される。
    同年、ラスムッセンは米国リッケンバッカー自動車の生産設備を購入、
    この設備は1929年から生産された
    高級モデル、ツヴィッカウ(Audi Zwickau )とドレスデン(Audi Dresden )で使われ、
    またこれらにはリッケンバッカーのエンジンを搭載した。
    他にプジョーからライセンスした4気筒エンジンを搭載したモデルも生産された。
    この時期のアウディ車は特殊なボディワークがなされた高級車だった。

    1885年1903年ヴァンダラー

    1885~1941

    ヴァンダラーは堅実な小型車・オートバイを生産するメーカーである。

    1885年に自転車輸入会社「ケムニッツアー自転車倉庫社」として設立され、1896年からはザクセン州ケムニッツにて自転車の自社製造を開始した。他にも工作機械やタイプライターなど多彩な製品を生産した。

    1902年からオートバイ生産に参入、更に
    1903年からは小型自動車開発を進め、
    1911年に1,147ccの小型車
    「ティープW1"プップヒェン"5/12PS」を発表。


    1906年1928年DKW
    ドイツでは後発のオートバイ・自動車メーカーでありながら、1920-30年代に得意技術である2ストロークエンジンを活かして急成長を遂げ、1932年のドイツ国内民族メーカー4社合同によるアウトウニオン設立の中核企業となった。「DKW」ブランドは1960年代まで用いられ、そのモデルは以後のアウディ車の母体となった。


    デンマーク人で若くしてドイツに渡った機械技術者イェルゲン・スカフテ・ラスムッセン(Jørgen Skafte Rasmussen 1878-1964年)により、
    ザクセン州ケムニッツでラスムッセン&エルンスト有限会社として1906年に創業した。

    当初、機械メーカーとして業績を伸長。第一次世界大戦中の1914年には、得意分野であった蒸気機関関係の技術を活かし、蒸気自動車の試作を試みたものの失敗している。ドイツ語で「蒸気自動車」を意味する dampf kraft wagen を略して「DKW」の社名が生まれた。

    DKWは2ストロークエンジンの技術を活かし、1921年以降本格的なオートバイ生産に乗り出す。

    DKWは余勢を駆って1928年に四輪車に進出、2ストロークエンジンを搭載した先進的な小型大衆車を市場に送り出した。

    1932年1932年
    ~1985年
    アウトウニオン
    1932年、
    ホルヒ、
    アウディ、
    ヴァンダラー、
    DKW
    の4社合併で結成された。

    アウトウニオンは日本語で「自動車連合」の意。

    一つの自動車グループだが
    最高級車をホルヒ、先進的な
    中型車をアウディ、
    小型車をヴァンダラー、
    大衆車をDKW

    が担うことでブランドとして残った。
    後にNSUを合併している。

    その社名は1930年代、フェルディナント・ポルシェ設計の高性能なアウトウニオン・レーシングカーを送り出し、グランプリレースにおいて成功を収めたことで特に著名である。



    1985年には社名をアウディAGに変更。

    1873年1905年NUS
    1873年にニット編み機製造企業として設立、1884年にネッカー川とズルム川(ドイツ語版)の合流する街ネッカーズルム(Neckarsulm)に移る。NSUのブランド名はネッカーズルムに由来する。

    すぐにオートバイの製造を開始し、
    1892年には完全にオートバイ製造企業になった。1905年には自動車製造にも進出するが、
    1932年に自動車部門はフィアットに買収された。
    第二次世界大戦中に開発製造したものに
    無限軌道オートバイともいえる
    ケッテンクラートがある。
    二輪車生産台数はホンダに抜かれるまで世界一であった。


    1985年1985年→→アウディAG


     

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    ドイツ6

    西暦 etc 企業名 概要
    1900年1900~
    1957
    アドラー

    アドラー(Adler)は
    1900年から1957年までドイツに存在して
    いた自動車とオートバイのメーカー
    およびブランドである。

    社名の「アドラー」とは、
    ドイツ語で鷲を意味する。

    他に自転車やタイプライターなども製造していた。


     
    1926年メッサ―シュミット
    1926年 - 航空機製造部門をBFWとしてBMWから分離。

    同社は1938年にメッサーシュミットと改称。

     
    1922年1922年ハインケル
    ハインケルとはエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士によって設立された
    ハインケル航空機製造会社(Heinkel Flugzeugwerke)を指す。

    ヴェルサイユ条約による航空機製造禁止が緩和された1922年にドイツ北部の
    ロストック近郊のヴァーネミュンデ (Warnemünde) に設立された。

    第二次世界大戦中にドイツ空軍のために爆撃機を始め数多くの航空機を製造した。

     

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    ドイツ・トラック

    西暦 etc 企業名 概要
     ダイムラー・トラック
     メルセデス・ベンツ・グループ
     
    1840年
    MAN
    MAN(エム・アー・エヌ、MAN SE、旧社名MAN AG)は、
    ドイツの自動車・機械メーカーである。
    マンとも表記する。

    社名の由来は、マシーネンファブリーク・アウクスブルク・ニュルンベルク
    (Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg)
    の頭文字であり、
    「アウクスブルク・ニュルンベルク機械工場」を意味する。
    フォルクスワーゲングループの企業である。

    1943年 - V号戦車パンター

     
     オペル
     
    1866年1866年マルギス
    マギルス(Magirus GmbH)は、
    消防隊の先駆者であり起業家である
    ドイツ人のコンラッド・ディートリッヒ・マギルス(Conrad Dietrich Magirus)
    によって設立された ドイツ、
    バーデン=ヴュルテンベルク州ウルムに
    拠点を置く消防用設備と貨物自動車
    (消防車)メーカー。

    ドイツ社(Deutz AG)の商用車部門であったマギルス=ドイツ(Magirus-Deutz)として一般的に知られる。

    今日も使用されるロゴはウルム大聖堂の尖塔を象ったMagirusの「M」を表している。

     
    1864年KHD

    →Deutz AG
    Deutz AG
    ドイツAG

    KHD(KLOCKNER- HUMBOLT-DEUTZ

    Deutz AGは、1864年に設立され、ケルンを拠点とするディーゼル、ガス、水素、電化エンジンのドイツ上場メーカーです。

    同社は過去に、
    Klöckner-Humboldt-Deutz
    クロックナー・フンボルト・ドイツ
    の有名な略語KHDを含むさまざまな名前で運営されてきました。

    同社は、空冷、水冷、油冷ディーゼルエンジンの既存の生産に加えて、
    オットーエンジン、機関車、自動車、
    商用車(トラックおよびバス)の建設にも
    携わってきました。 )、
    建設機械、農業機械およびプラント建設。

    1964年から使用されている同社のロゴは、
    もともとウルムから買収した
    自動車メーカーのマギルスのロゴでした。

    ウルム大聖堂の様式化されたシルエットと
    組み合わせて、マギルスの大きな「M」を示しています。



    1892年から1970年にかけて、ドイツは4馬力から2000馬力の出力範囲で機関車を製造しました。ガソリンエンジンで1927年まで、ディーゼルエンジンで1927年からますます。

    1897年から、当初はMANからのライセンスに基づいて、固定ディーゼルエンジンも製造されました。

    Gasmotoren-ケルンのFabrikDeutzAGは、ルクセンブルクのAugust&CharlesGreten によって製造された世界初の燃焼エンジンを動力源とする消防車に駆動モーターを供給しました。
    後にマギルス・ドゥーツを買収し世界的に有名な消防車を製造しました

    1906年に自動車の大量生産が試みられました。
    基礎はブガッティによる建設でした。
    大型4気筒車はベルリン支社に建設される予定でした。
    1909年までは数台の実験車しか製造されていませんでしたが、
    同時にイタリアのエットーレブガッティ用に1.3リッターエンジンを搭載したレーシングカーが製造されました。
    ただし、最もよく知られているモデルは、
    1909年からのDeutz Prinz Heinrich Type 9Cです。
    ただし、全体として、1913年までDeutzによって製造された乗用車はごくわずかでした。

    1907年、Deutzは2つのモデル、Deutz Pfluglokomotive(40 hpガソリンエンジン)とDeutz Automobile Plow( 25 hpガソリンエンジン)で上昇しました。
    また、1919年から、トラクター建設にドイツファール(40 hpガソリンエンジン)を搭載しました。

    1916年の第一次世界大戦中、当時の3,400人の従業員も、ヨーゼフフォルマーの計画に従って、5トンの積載量のトラックを製造しました。補助トラックに加えて、「ドイツトレッカー」も砲兵トラクターとして建設されました。1927年、ドイツ初のディーゼルトラクターであるMTHの量産が開始されました。ディーゼル油に加えて、これは原油、ガス油、パラフィン油および石油で操作することもできます。現場での使用には限られた範囲でしか適していませんでした。

    1921年に、オーバーウルゼルエンジン工場と利益団体が結成され、航空機エンジンとトラックエンジンも製造されました。

     
    1826年1903年クルップ
    クルップ(Krupp)は、ドイツの工業地帯であるエッセンを地盤とする、ドイツの製鉄業、兵器製造企業として長い歴史を持つ、重工業企業である。

    1999年にティッセン社と合併し、巨大工業コングロマリットのティッセンクルップとなった。

    プロイセンの炭坑町だったエッセンに住む発明家のフリードリヒ・クルップ(1787年-1826年)は、イギリスが独占する鋳鋼の製造技術を解明することを志した。
    彼はライン川の河畔に小さな木造の水車小屋を建て、水力を動力とする研究室を構えた。この水車小屋が、のちの巨大企業・クルップの源流である。

    彼はその工房にこもり、鋳鋼の製造法の解明を試みた。だが技術的な難関を乗り越えることができず、借金を重ね、晩年には気力をなくして寝たきりになった。彼が39歳で貧困のうちに窮死したその日、作業小屋とわずかな従業員は、14歳だった長男のアルフレート・クルップ(Alfred Krupp、1812年-1887年)に引き継がれた。

    アルフレートは数年のあいだ工房にこもって研究を重ねたのち、ついに鋳鋼の製造に成功する。彼は細々と工具や食卓ナイフ、スプーンの製造を始めた。鋳型に模様をつけることで、柄に花などの模様のあるスプーンを最初に作り出したのはクルップだった。のちには貨幣の鋳造機や蒸気機関車の車輪の製造を開始し、苦労しながらもクルップの事業は軌道に乗りはじめた。

    1903年にフリードリヒ・クルップ社(ドイツ語: Friedrich Krupp AG)を設立。

     
    1835年1905年ハノマーグ
    ハノーファーシェ・マシネンバウ(Hannoversche Maschinenbau AG )は、
    ドイツのニーダーザクセン州ハノーファーにある
    蒸気機関車、
    トラクター、
    軍用車両製造会社である。

    しばしばハノマーグもしくは
    ハノマーク(Hanomag )と略称される。

    第一次世界大戦前にルーマニアや
    ブルガリアへ最初に蒸気機関車の
    大量の輸出を行った。

    会社の歴史は1835年、Georg EgestorffがEisen-Giesserei und Maschinenfabrik Hannoverと呼ばれる小型の蒸気機関を製造する会社を創業した時に遡る。

    彼らはまもなく農業機械を製造し、1846年には最初の蒸気機関車をハノーファー州鉄道向けに製造した。
    1870年に500両生産、1871年には社名をHannoversche Maschinenbau AG.に変えた。

    1905年には陸軍向けに蒸気自動車を受注した。

    1912年、ガソリンエンジン" 車の生産に乗り出し、農業トラクターに搭載した。

    1989年、日本の小松製作所がハノマーグ社(Hanomag AG)に資本参加。2002年には完全子会社化し、コマツドイツ有限会社(Komatsu Germany GmbH)となった。

     
    1810年1925年ヘンシェル
    ヘンシェル(独: Henschel)は、
    ドイツ、カッセルで設立された
    機械・車両メーカーである。

    ヘンシェルはドイツの初期の蒸気機関車を
    製作し、一時期はヨーロッパで最も重要な機関車製造メーカであった。

    1810年、ゲオルク・クリスティアン・カール・ヘンシェル(George Christian Carl Henschel)がカッセルにて、最初は鋳造工場としてヘンシェルを設立した。

    1816年に蒸気機関の製造を開始した。
    1837年には息子のカール・アントン・ヘンシェル(Carl Anton Henschel)が、現在のカッセル大学の位置に当たる、オランダ広場(Holländischen Platz)で第2工場を設立した。

    1848年7月29日、ヘンシェルが最初に製作した蒸気機関車が、1844年設立のフリードリヒ・ヴィルヘルムス・ノルト鉄道(Friedrich-Wilhelms-Nordbahn)に納入された。

    1848年8月、公式に45km/hまで出せるドラッヘ(Drache、竜の意)号が納入されている。



    1925年から1970年代まで、
    ヘンシェルはトラックやバスの製造でも
    ドイツ有数のメーカであった。

    1933年から1945年までは、
    ヘンシェルはカッセルにおいて戦車を、
    ベルリンにおいて航空機とミサイルの
    製造を行っていた。

    この中には有名なティーガーI戦車も含まれる。

     
     トレイトン
     マルチカー
     
     ゴールドホッファー
     
     


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    フランス

    西暦 etc 企業名 概要

    1890年パナール
    1890年にガソリン自動車をフランスで最初に製作した。

    本格的な自動車メーカーとしてはドイツのダイムラーおよびベンツ(現・ダイムラー)にも先んじる
    世界最古の自動車メーカーである。
    自動車生産開始当初の社名はパナール・エ・ルヴァッソール社(Panhard et Levassor)であった。

    旧社名の略称である「PL」は、同車の多くのモデルに後々まで車名やエンブレムとして用いられた。


    取引のあったベルギー人弁理士エドゥアール・サラザンの依頼により、サラザンの取得していたゴットリープ・ダイムラーのガソリンエンジンのフランスにおける製造ライセンスによって、1887年からエンジン生産体制構築に着手した。
    途中、1887年12月にサラザンが急逝するアクシデントはあったが、サラザン未亡人ルイーズの尽力でダイムラーとのライセンスを維持、更にルヴァッソールがルイーズと恋愛関係に陥って結婚してしまったことで、エンジンのライセンスはルヴァッソールに移った。

    1890年に、リアの床下寄りにエンジンを搭載した、フランス最初のガソリン自動車を開発した。続いてガソリン自動車開発を企図したプジョーには、初期のエンジン供給を行っている。

    しかしリアエンジン試作車の性能は不十分であったため、この克服策を研究した結果、1891年には車体前方にエンジンを置いて後輪を駆動する「フロントエンジン・リアドライブ方式」を世界のガソリン自動車で最初に実用化する。従前主流であったリアエンジン方式よりも操縦安定性に優れることから大きな成功を収めた。

    更に1895年には、潤滑油を満たしたケースにギアセットを納める「密閉型ギアボックス」を備えたトランスミッションを実用化、続いて車体前端へのラジエターの設置や、丸ハンドルの導入など、現在まで通じる、自動車技術史上に残る重要な発明を成し遂げ、自動車の実用化、工業化に多大の貢献を行った。


    1810年1882年プジョー
    1849年に生まれたアルマン・プジョーが1865年から経営に参加し、のちに会社としてプジョーを創設した。

    1882年に"Le Grand Bi"というペニー・ファージング型の自転車を同社のラインナップに追加、その後自動車に興味を持ったアルマンは、ドイツの技術者であり内燃機関および自動車開発のパイオニアであったゴットリープ・ダイムラーらと会ったあと、1889年に蒸気エンジンを搭載した3輪のプジョー初の自動車を4台製作し自動車製造業を始めた。

    翌1890年ゴットリープ・ダイムラー、エミール・ルヴァッソールと会合をした上で、パナールがダイムラーのライセンス下で製造するガソリンエンジンを蒸気エンジンに替わって採用することになる。

    その後製造台数を徐々に増やしていき
    1895年までに約140台を製造しており、世界最古の量産自動車メーカーのひとつとして知られている。

    1896年には初のプジョー製エンジンを搭載したタイプ15を登場させると同時にSociété Anonyme des Automobiles Peugeotを創立し、
    甥のロベールの経営によって発展を続けていく。

    1921年には、ヨーロッパ初の本格的な2人乗り小型車、タイプ161「クアドリレット」を発表。
    4気筒、667cc、8馬力で、ルノー・6CV(フランス語版)などと共に大衆車の決定版となった。

    1902年1905年
    ブラジエール


    ブラジエール(フランス語: Brasier)は20世紀初めのフランスの自動車製造会社である。
    パリ郊外に会社があり、1905年から1930年の間、
    活動した。

    1902年に「リシャール=ブラジエール」(Richard-Brasier)という名前で設立され、
    1926年からは「シェニョー=ブラジエール」(Chaigneau-Brasier)の社名で知られる。


    1909年1909年ブガッティ
    エットーレ・ブガッティは1909年、自動車会社を設立

    1894年ドライエ
    ドライエ(Société des Automobiles Delahaye )は、1894年創業のフランス自動車メーカーである。

    1899年ルノー
    1898年にフランス人技術者のルイ・ルノー(Louis Renault、1877年 - 1944年)とその兄弟によって
    「ルノー・フレール(ルノー兄弟)」社として設立された。

    ルノーはパリ市からタクシーの大量生産を受注して大量生産に移行する。

    現在はおもに中小の乗用車や商用車を手がける。
    過去には商用車専門の子会社のルノーV.Iで
    大型トラックや軍用車両の生産、
    第二次世界大戦前は航空機やボートも生産していた。

    1919年1919年シトロエン
    第一次世界大戦終結直後の1919年、
    ダブルヘリカルギア(やまば歯車)の製造と
    大砲用の砲弾製造で財を成した
    アンドレ・シトロエン(André Citroën)が、
    ヨーロッパにおける自動車の大衆化を目指し、
    フランス版フォードとなるべく設立した企業である。

    フランスの自動車メーカーの中では後発組といえる存在であった。
    最初の工場は軍需工場を転用したパリのセーヌ川・ジャヴェル河岸の工場で、現在その場所は「アンドレ・シトロエン公園」になっている。



     

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    イギリス自動車産業

    西暦 etc 企業名 概要
    1913年1913年モーガン
    1913年、イングランド、ウスターシャーのマルヴァーンにて設立され、現在も同地にて創業者一族らによる家族経営がなされている。
    従業員は231名(2020年時点)。

    1952年1952年ロータス・カーズ
    ロータス・カーズ(Lotus Cars)は、イギリス・ノーフォークのヘセル(Hethel)を拠点とするスポーツカーメーカーである。ライトウェイトスポーツモデルが主力車種だが、過去にはスーパーカー(エスプリ)も製造しており、近年では電気自動車(エヴァイヤ)などのハイパーカーも製造している。

    会社組織の本体はグループ・ロータス(Group Lotus plc)であり、乗用車の製造・販売を行うロータス・カーズ(Lotus Cars Ltd.)、またその傘下に自動車技術に関するコンサルタント業を行うロータス・エンジニアリング(Lotus Engineering)部門がある[

    1996年以降、マレーシアの国有自動車会社プロトンの子会社となり、2017年5月に吉利汽車がロータス・カーズの株式の51%を取得した。


    1945年Bristol Cars
    ブリストル・カーズ

    ブリストル・カーズ(Bristol Cars)はイギリスの高級車メーカーである。
    モーガンと同じく、数少ない純イギリス資本の自動車メーカーのひとつ。

    1946年1946年TVR
    1947年にトレバー・ウィルキンソン(Trevor Wilkinson)が、イギリス・ブラックプールにて創業した。小型スポーツカーの製造を特徴とし、1990年代には同国で最大の独立したスポーツカー・メーカーとなっていたが、1970年代前までは小さなコーチビルダーに過ぎなかった。1981年にピーター・ウィラーに買収され、1990年代には乗用車・キミーラが成功した。

    50年以上の歴史の中でTVRは、「スポーツカーというのは、大馬力で軽量であればそれでいい」という考えのもとに、マルチチューブラースペースフレームに軽いFRPボディを被せた軽量ハイパワーなFR車を作り続けてきた。TVRの乗用車には、 エアバッグ、ABS、TCS等の安全装備や電子デバイスは一切搭載されなかった。一方で、製造される自動車は、高性能であるわりに安価(日本では新車の乗り出し価格は、ほとんどのモデルで1000万円以上)である反面、信頼性に問題があると評される。

    2004年にロシア人実業家に買収され、椅子やメーターパネルの製造まで自社内でまかなうという旧来の方針は改められようとしていた。しかしそれ以降の会社運営は混乱状態にあり販売は激減、2006年12月には経営破綻した。しかし2013年に経営者が代わり再建され、2017年には新型車が発表され、2019年から発売される予定である。

    1973年1973年ケーターハム
    ケーターハム・カーズ(Caterham Cars )は、イギリスの小規模自動車メーカーである。

    1973年、サリー州ケイタラムに設立され、ロータス・カーズからロータス・セブンの生産権を引き継ぎ、1960年代から基本構造が変わらないライトウェイトスポーツカー「セブン」シリーズ(通称:スーパーセブン)の生産と販売を行っている。

    日本のVTホールディングスの100%子会社。

    現在、日本での正規販売においては、「ケーターハム」に代えて「ケータハム」との表記がみられる。

    1904年1903年ACカーズ
    もともと AutoCarriersLtd.として設立された
    ACカーズは、英国の自動車専門メーカーであり、
    英国で設立された最も古い独立系自動車メーカーの1つです。

    長年にわたる財政状態の悪化の結果、会社は現在の形になるまで何度も社名変更または清算されました。

    最終的にACになった最初の車は、
    1903年のクリスタルパレスモーターショーで発表されました。

    それは20HPのツーリングカーで、ウェラーの名前で表示されていました。ロンドンのウェストノーウッドのウェラー兄弟は、高度な20 hp(15 kW)の自動車を生産することを計画していました。

    しかし、彼らの財政支援者でありビジネスマネジャーである肉屋のジョン・ポートワインは、車は高額で生産できないと考え、ウェラーに少量の三輪車を設計して生産するように勧めました。

     

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    イギリス自動車産業2

    西暦 etc 企業名 概要
    1900年1900年から1931年Swift Motor Company
    スイフト・モーター・カンパニー
    英国コヴェントリーで1900年から1931年まで活動した自動車会社である。




    1919年1919年

    1966年
    アームストロング・シドレー
    アームストロング・シドレー(Armstrong Siddeley)とは、20世紀前半に操業されていたイギリスの工業企業グループ。1919年に創業され、高級自動車と航空用エンジンの製造で最も有名である。

    アームストロング・シドレーの歴史は、1902年にJ・D・シドレー(John Davenport Siddeley 、1866-1953年)によって創業が始められたシドレー・オートカーズ(Siddeley Autocars )までさかのぼる。第一次世界大戦ではトラック、指揮車や救急車を生産し、1915年に航空機とその航空エンジンの製造を同時に開始した。

    1919年にアームストロング・ホイットワースに買収され、子会社化された。その時に社名はアームストロング・シドレー・モーターカーズに変更された。1927年には重工業事業をヴィッカースと合併させ、ヴィッカース・アームストロングが設立された。

    この時、J・D・シドレーはアームストロング・シドレーとアームストロング・ホイットワース・エアクラフトを手元に置き、アームストロング・シドレーは高級自動車と航空用エンジンの開発と生産を行った。

    イギリス国内の航空関係メーカーの統合化の流れで、アームストロング・シドレーはブリストル・エアロ・エンジンズ (Bristol Aero Engines) と合併してブリストル・シドレーとなった。

    しかし1966年にはロールス・ロイス・ホールディングスに吸収され、アームストロング・シドレーの社名は消滅した。

     ヴィッカース
    ヴィッカース (Vickers) は、イギリスで1828年から1999年まで(名称は2003年まで、傍流は2004年まで)存続した、重工業メーカーである。





    1999年、ヴィッカースはロールス・ロイス・ホールディングスに買収された。

    2002年、ヴィッカースの兵器部門がアルヴィス plcに売却され、アルヴィス・ヴィッカース (Alvis Vickers) となった。

    2003年、ロールス・ロイス傘下のヴィッカース plcはヴィンターズ plc (Vinters plc) に名を変えた。子会社も同様である。これにより、ロールス・ロイス・グループからヴィッカースの名は消えたが、アルヴィス・ヴィッカースにはまだ名を残していた。

    2004年、アルヴィス・ヴィッカースがアルヴィスごとジェネラル・ダイナミクスに買収され、さらにBAEシステムズに買収された。

    同年、BAEシステムズは子会社 BAE Systems RO Defence とアルヴィス・ヴィッカースを合併させ新会社BAEシステムズ・ランド・システムズ (BAE Systems Land Systems; BAE LS、現BAE システムズ・ランド・アンド・アーマメンツ) を設立した。これにより、ヴィッカースの名は完全に消滅した。

     
    1808年1906年D. Napier & Son Limited
    ネイピア・アンド・サン

    D.ネイピア・アンド・サン(D. Napier & Son Limited)は英国で第一次世界大戦以前(いわゆるブラス・エイジ)からエンジンや自動車を製造していた会社であり、また20世紀の初めから中ごろにはもっとも重要な航空用エンジンメーカーのひとつであった。

    第一次世界大戦後に製作されたライオンは、戦間期のある時期では世界で最も高出力なエンジンであり、
    また、セイバーの後期型では3,500 hp (2,600 kW)を発生した。

    第二次世界大戦中、会社はイングリッシュエレクトリックに買収されました、そしてエンジンの製造はやがて中止されました。

    現在、ネイピアターボチャージャーズはアメリカの会社ワブテックの子会社です。


     
     

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    イギリス・アストンマーチン

    西暦 etc 企業名 概要
    1906年1906年ラコンダ
    ラゴンダ (Lagonda) は、イギリスの高級車ブランド。1906年に設立された。1947年以降はアストンマーティンの傘下となる。ラゴンダのブランド名は1995年から2008年、2010年から2013年まで使用されていなかった。

    1947年にラゴンダはデヴィッド・ブラウンに買収され、彼がもう一つ買収したアストンマーティンと共にミドルセックスのフェルトハムに移転した。

    ・ラコンダ
    ・アストン・マーティン

    エガム・ハイスの古い工場はパターズ・リミテッドに渡り、A・P・グッドが経営権を取得した。

    生産はW・O・ベントレーの最後のプロトタイプ、
    新しいシャシーと完全に独立したサスペンションを装備した1948年の2.6リッターから再開された。

    新しい2580cc直列6気筒エンジンは1950年代のアストンマーティンエンジンの基礎となった。
    エンジンは1953年に3リッターに拡大され、1958年まで引き続き使用された。


    1913年1913年アストンマーティン
    1913年に、ロバート・バムフォード (Robert Bamford) とライオネル・マーティン (Lionel Martin) が、レーシングドライバーでもあるルイス・ズボロフスキー伯爵の援助のもと「バムフォード・アンド・マーティン」を設立した。

    その後、「シンガー」を改造して1915年に製作された1号車が、イギリスのバッキンガムシャーの村「アストン・クリントン (Aston Clinton) 」で行われたヒルクライムレースでマーティンが成功を収めたことから、「アストンマーティン」のブランド名が誕生した。

    1920年には「スポーツ」がデビューし、これを手にした後援者のズボロフスキー伯爵らが数々のレースに参戦し、1923年には市販が開始された。

    しかし1924年に、ズボロフスキー伯爵がイタリアのモンツァ・サーキットでレース中の事故で死亡したことを受けて倒産し、さらに翌年の1925年にも再度倒産し、マーティンが会社を去ることとなる。

    その後1926年にアウグストゥス・チェーザレ・ベルテッリが参画し、1937年に至るまで「インターナショナル」や「アルスター」、「MkII」など、アストンマーティンの名声を高めることに貢献する様々な車種の開発に関わるほか、1931年のル・マン24時間レースでは総合5位に入る活躍を見せるなど耐久レースを中心に活躍する。

    しかし、経営効率を顧みない生産方式やモータースポーツへの多額の投資などが影響し、1932年には再度経営危機に陥いることとなる。

    これに対してアーサー・サザーランドが手を差し伸べるとともに、1936年以降は収益に直接貢献しないレーシングカーの開発とモータースポーツへの参戦をやめ、「15/98」や「2リッター・スピード」などの市販車の製造に専念することとなる。

    経営再建が進むと思われたが、1939年9月にイギリスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発したため、高級スポーツカーの市場がなくなった。さらにイギリスが戦時体制下に入ったため、「2リッター・スピード」を最後に市販車の製造を停止し、その後は軍用機の部品の製造に専念することで大戦下を生き延びることになった。

    第二次世界大戦終了後の1947年に、イギリスの実業家で、トラクターをはじめとする工業機械などの製造業のグループ「デイヴィッド・ブラウン・リミテッド」を率いるデイヴィッド・ブラウン (David Brown) の傘下に納まり、さらに倒産した高級車ブランドの「ラゴンダ」を吸収合併した(工場を除く)。なおこの際に、当時ラゴンダにいたベントレーの創設者で、開発者でもあるウォルター・オーウェン・ベントレーもそのままアストンマーティンに移籍し、ラゴンダのエンジンがアストンマーティンに使用されたほか、以降新型車のエンジン設計に関わることになる。

    1948年には第二次世界大戦後、初のモデルである「DB1」が発表された。さらに1950年にはベントレーがエンジンを設計した「DB2」と、立て続けに「DB」の名が付いたモデルがデビューする。なお以降のモデル名には、デイヴィッド・ブラウンのイニシャルである「DB」が付けられるようになる。さらに「デイヴィッド・ブラウン・グループ」傘下に入ったことを強調するため、1950年代後半にはロゴマークにも「DAVID BROWN ASTON MARTIN」と書かれることになった。

    デイヴィッド・ブラウン傘下で資金の調達が進んだことを受けて、第二次世界大戦後に復活したモータースポーツへの復帰も行い、1949年より「ル・マン24時間レース」に復帰しその後参戦を続けたほか、1959年と1960年には、2シーズンのみながらフォーミュラ1世界選手権に参戦を行うなど、その活動範囲を拡大していった。

    「ル・マン24時間レース」や「スパ・フランコルシャン24時間レース」などの耐久レースではすぐに上位に食い込む活躍を見せ、1955年のル・マン24時間レースと1956年、1958年には総合2位に入り、1959年のル・マン24時間レースでは、「DBR1」が「フェラーリ」や「ジャガー」、「ポルシェ」などの強豪を退けて総合優勝を飾るなど、「黄金期」と呼ばれる活躍を残しモータースポーツにおいて高い名声を獲得した。

    耐久レースをはじめとするモータースポーツへの参戦は、市販車の技術開発に多くの貢献をしたのみならず、モータースポーツにおける活躍をマーケティングに生かした。しかし市販車部門に注力することもあり、1959年を持ってモータースポーツの一線から手を引いた。

    1950年代後半から市販車部門に注力し、1955年には、「アルヴィス」や「ヒーレー」のボディ製作も手掛けていた老舗コーチワーカーの「ティックフォード」を買収し、「DB2/4 Mk2」以降のボディ製作はニューポート・パグネルにある同社工場で行われるようになった。


    その後はボディ以外の製造もニューポート・パグネルに移り、イタリアの名門カロッツェリアである「トゥーリング」が特許を持つ「スーパーレッジェーラ」製法で製作された軽量ボディに新しい直列6気筒のエンジンを搭載した「DB4」や、同じく名門カロッツェリアである「ザガート」がデザインを担当した「DB4 ザガート」など、後に名車と呼ばれる高性能な新型車をデビューさせた。

    さらに1961年には、「ラゴンダ」のブランドで大型4ドアサルーンの「ラゴンダ・ラピード」を発表した。なお、その後アストンマーティンが発表する大型4ドアサルーンのいくつかで「ラゴンダ」のブランドが使用されることとなる。

    1964年には「DB5」が、アメリカ映画「007シリーズ」の『007 ゴールドフィンガー』で「ボンドカー」に抜擢されたことで世界的な知名度を得て、1965年には改良型の「DB6」を発表し、最大の市場となるアメリカでの販売を伸ばすなど絶頂期を迎えた。

    なお、1966年にはエリザベス2世女王が工場を訪問し、その後チャールズ王太子に「DB6 ヴォランテ」をプレゼントするなど、この頃よりイギリス王室メンバーのプライベートカーとして愛用されていくようになる。

    また1967年には、完全な新設計の新型車「DBS」や、同じく新設計のV型8気筒エンジンを投入するなど、アストンマーティンの経営は順調なまま推移していくかに見えた。

     
    しかし1972年に「デイヴィッド・ブラウン・グループ」が経営不振に陥り、アストンマーティンを立て直し成長軌道に乗せたデイヴィッド・ブラウンは、アストンマーティンの経営権を手放さざるを得なくなってしまう。

    同年にはウィリアム・ウィルソン率いる投資グループ「カンパニー・ディベロップメント」に、わずか100ポンドで経営権が移り、モデル名から「DB」の文字が消えることになった。なお、これにより「DBS」は「V8」と改名された。

    新しい経営体制下でもデイヴィッド・ブラウン時代と同様に順調に経営が行われるかと思ったが、まもなく生産する各モデルが、アメリカのカリフォルニア州などで施行された新たな排ガス規制法に対応できなくなったことから、1974年にはアストンマーティンにとって最大の市場であるアメリカで販売できなくなった。

    このために運営資金にも事欠くような状況になったため、急激な経営不振に陥りついに管財人の手に渡った。1975年に入るとやむなく数百人の従業員を解雇し、生産を停止し工場を閉鎖するなど、再び会社の将来が危ぶまれる状況になった。

    1975年4月には、カナダ人のジョージ・ミンデンとアメリカ人のピーター・スプラーグ、イギリス人のアラン・カーティス、デニス・フラザー、ジェレミー・ターナーらからなる投資家グループとアストンマーティン・オーナーズクラブによる救済ファンドに再度売却された。

    その後まもなく工場が再開され、100人ほどの従業員が再雇用された他、「アストンマーティン・ラゴンダ・リミテッド」に社名が改められた。さらに日本やアメリカを含む国際市場での販売計画が明らかにされた。なお、工場の閉鎖に伴う信用低下を受けた部品調達の問題から、本格的な生産再開は1976年になった。

    新たなオーナー達から得た資金を元に、1970年代後半にかけて「V8」の進化版である「V8 ヴァンテージ」や「V8 ヴァンテージ・ヴォランテ」、さらに1976年には、ウィリアムズ・タウンズによる完全な新設計の大型4ドアモデル「ラゴンダ2」などの新しいモデルを次々とデビューさせた(なお「ラゴンダ2」は、LEDやタッチパネルを多用したダッシュボードの実用化が難航し、発売は1978年にずれ込んだ)。

    さらに1979年には、意欲的なデザインの試作モデル「ブルドッグ」がデビューし大きな話題を呼ぶなど、数年に渡る停滞期を脱して再生への道を進むことになった。

    さらにこの頃、経営不振に陥ったイタリアの「ランボルギーニ」の買収や、「ブリティッシュ・レイランド」傘下にあった「MG」の救済に手を貸すという構想もあったものの、折からの不景気により450人の従業員を解雇せざるを得ないことになったため、このような拡張計画は破棄された。

    1981年には、さらなる経営の安定を図るべく、石油開発及び流通企業の「ペース・ペトロリアム」を経営するイギリスの実業家で大富豪のヴィクター・ガーントレットに株式が売却された。

    1970年代後期に起きたオイルショック以降の不景気を受けて、本業の自動車製造の方は不景気低迷を続け、再度従業員の解雇を行なうことを余儀なくされたものの、他の投資グループからの投資も引き入れたガーントレットの下で経営は安定を取り戻し、1955年に買収した「ティックフォード」のブランドでのエンジニアリング開発子会社を設立し、「フォード・カプリ」や「オースチン・メトロ」の開発を委託するなど事業多角化を進めた。

    またガーントレットは、再び「007」シリーズの新作『007 リビング・デイライツ』に「V8ヴァンテージ」を「ボンドカー」として登場させたり、「DB4」時代に提携関係を結んでいたイタリアのカロッツェリア「ザガート」への投資を行い、1986年には「ザガート」との少数生産のコラボレーションモデルである「V8ヴァンテージ・ザガート」をデビューさせるなど、伝統を生かした取り組みを行った。

    ガーントレットの元で経営状態こそ安定したものの、ニューポート・パグネル工場の旧退化した非効率な生産設備の更新や、燃費効率が悪く、もはや時代から取り残されつつあったV8エンジンに代わる新エンジンの開発などの、長期的な経営に影響を与える抜本的な改革や大規模な投資はなされないままであった。


     
    当時、ジャガーをはじめとする、ヨーロッパの高級車メーカーの買収を進めようと動いていたフォード・モーターのヨーロッパ代表のウォルター・ヘイズとガーントレットが、「ミッレミリア」に参加する王室メンバーによりイギリスで行われたパーティーで同席したことをきっかけに、フォード・モーターによるアストンマーティンの買収が急きょ決まり、1987年にはフォード・モーターに株式の売却を行い同社の傘下に納まることとなった。

    なお、フォード・モーター傘下入りした後の1989年には、1980年代中盤から計画が進んでいた「ヴィラージュ」が発売された。生産工程こそ以前のままであったが、内装や電装系にはフォードのものが多く流用され品質が向上した。

    その後1991年にフォード・モーターによる買収が完了し、フォードから送り込まれたウォルター・ヘイズ率いるアストンマーティンの新しい経営陣によってさまざまな改革が主導されることになる。

    新しい経営陣の下で全く新しいモデルの開発プロジェクトである「NPX」がスタートし、元レーシングドライバーで、ジャガーのレーシングカーの開発などを行ってきたトム・ウォーキンショー率いる「TWR」の主導で開発が行われた。1994年には、フォードの最新の生産技術が導入されたバンバリーにある新工場で生産される新モデルが「DB7」の名でデビューした。

    また、買収完了後にフォードはデイヴィッド・ブラウンを、新生アストンマーティンの役員として再び招聘したことから、「DB7」以降の多くの主力車種では再び「DB」の車名を名乗るようになった。

    買収完了後もフォードが多額の資金を注入したことで、1990年代に入ると旧態化していた生産施設の刷新や研究開発への投資の増加がなされ、その結果新しいエンジンや新技術を導入した新型車「DB7」や「ヴァンキッシュ」、「DB9」などの投入を随時行ったこともあり、世界各国で販売台数が増加しようやく経営状態が安定するようになる。

    また、フォード傘下となったことで、同じくフォード傘下の「ジャガー」、「ランドローバー」、「ボルボ・カーズ」、「デイムラー」とともに「PAG(プレミアム・オートモーティブ・グループ)」を構成するメーカーの1つとなり、「ジャガー」や「デイムラー」などを中心に、部品購買の共通化による経費節減や、品質の向上を目的とした部品の共有化も進められた。

    さらに2004年には、WRCで活躍する「プロドライブ」とのコラボレーションの元で、「アストンマーティン・レーシング」が設立され、本格的なモータースポーツへの復帰が開始された。

    フォードの豊富な資金力を受けて中長期観点からの投資が進んだほか、ラインナップの充実が図られアストンマーティンの経営は安定したものの、アメリカ同時多発テロ事件以降の原油の高騰などを受けて2000年代中盤以降にフォードの経営が悪化したことから、フォードはアストンマーティンの売却を進めることになった。

    その後売却先が絞られ、2007年3月にはプロドライブの創設者であるデイヴィッド・リチャーズやクウェートの投資会社2社などにより構成される投資家グループに、4億7900万ポンド(8億4800万ドル)で売却された。

    なおその後フォードの「PAGグループ」は、ジャガーやボルボとともに消滅したが、アストンマーティンの株式の一部はフォードによっても現在も継続保持されている。

    その後も、「DB9」の高性能版の「DBS V12」や「ラゴンダ2」の後継モデルとなる4ドアモデルの「ラピード」、さらにトヨタ自動車と共同開発した小型車「シグネット」などの新モデルを次々と投入したほか、「One-77」などの意欲的な限定車も投入された。





    2012年には、イタリアの「インベスティンダストリアル」が37.5パーセントの株式を取得し、さらに2013年にはドイツの自動車メーカー、「ダイムラー」との提携を開始した。また2014年には、元日産自動車副社長のアンディ・パーマーを経営最高責任者に迎え入れた。

    2016年には「メルセデスAMG」から供給を受けたエンジンを搭載した「DB11」を投入したほか、今後投入される新型車のエンジンはアストンマーティン製ではなく「メルセデスAMG」から供給されたものが搭載されると発表された。

    新車の製造販売のみならず、過去に製造出荷された自社の車両をレストアする事業にも力を入れており、主に投資対象として旧型車両を購入した新興富裕層からの受注に応えている。こうした取り組みもあり、アストンマーティン車は2014年現在、歴代全出荷台数の9割が実働車として現存しているとされる。

    また、FIA 世界耐久選手権のGTカー (LM-GTE) クラスでタイトルを争うなど、モータースポーツでも活躍を見せている。2017年のル・マン24時間レースでは、最終ラップの最終コーナーで「シボレー・コルベット」を抜き、逆転でのクラス優勝を果たした。さらにフォーミュラ1への復帰も検討していると報じられ、2018年からはレッドブル・レーシングと提携し、「アストンマーティン・レッドブル・レーシング」として参戦していた。

    2020年には、F1ドライバーのランス・ストロールの父親としても知られる、投資家のローレンス・ストロール率いる投資ファンドが25%の株式を取得して大株主となった。これに伴い、レッドブル・レーシングとの契約は2020年で終了。翌2021年からは、ストロールがオーナーを務めるレーシング・ポイントF1チームのコンストラクターを「アストンマーティン」に改称し、社のワークス・チームとして61年ぶりに参戦する。

     

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    イギリス・ジェンセン

    西暦 etc 企業名 概要
    1934年1934年ジェンセン・モーターズ
    ジェンセン・モーターズ(Jensen Motors )とは、イギリスのバーミンガムに存在していたスポーツカー・高級GT・商用車のメーカーである。

    ジェンセンは1934年にリチャード・ジェンセン(Richard Jensen )とアラン・ジェンセン(Alan Jensen )によって、小さなコーチビルダーとして設立された。彼らは働いていたボディー製造会社をオーナーの死後に引継ぎ、ジェンセン・モーターズに名称を変更した。彼らはモーリス・スタンダードなど当時のメーカーが製造していた大衆車向けの、高級感あるカスタマイズのボディを製造していた。

    1934年に彼らはアメリカの映画俳優クラーク・ゲーブルから、フォード・V8のシャシーをベースにした自動車をデザイン・製作する発注を受けた。そしてこの依頼の成果により、ジェンセンは多くの賞賛の声とジェンセンの事業への関心が増えることとなった。

    そして同年彼らは「ホワイト・レディー」という、ジェンセンの生産車第1号となる自動車の開発も始まった。この自動車は「Sタイプ」という自動車へと改良され、1935年から販売された。

    1930年代後半、ジェンセンは「JNSN」という商用車ブランドを展開し、軽量トラックや「ジェン・タグ」というトレーラートラックなどを製造した。

    第二次世界大戦中、ジェンセンは戦争協力に重点を置き、戦車を含む軍用車両のコンポーネントの製造や、救急車や消防車などを製造していた。

    戦後はジェン・タグの製造が盛んに行なわれた他、JNSNはバスなどの特殊車両に使用される自動車のシャシーや軽量ディーゼルトラックなどを製造していた。

    1950年代にはBMCからオースチン・ジブシーやオースチン・A40スポーツなどのボディ製造を依頼された。

    乗用車の製造は戦時中あまり行なわれなかったが、1946年に「PW」というセダンが製造された。しかし原材料不足が原因であまり多くは生産されなかった。また同年、デザイナーのエリック・ニール(en:Eric Neale)がウーズレーからジェンセンに加わり、彼のジェンセンにおける最初の作品が、1950年に発表されたモダンなデザインのクーペ「インターセプター」であった。

    1955年、ジェンセンはさらにニールのデザインしたクーペ「541」の生産を開始。ニールは当時では画期的だったファイバーグラスFRPを541のボディに使用した。さらに541の生産は1962年に「CV8」に切り替えられた。

    今までのジェンセン製のクーペがオースチン製の直列6気筒エンジンを搭載していたのに対し、CV8はアメリカのクライスラー製V8エンジンを搭載していた。
    軽量なエンジンと高出力エンジンの組み合わせで、ジェンセンの4シータークーペは世界でも有数の速さを備えていた。

    さらにジェンセンは2代目インターセプターを
    1966年に製造を開始。
    これはイタリアのコーチビルダー「カロッツェリア・トゥーリング」がボディーデザインを担当し、
    ボディ製作は当初は同じくイタリアのコーチビルダー「ヴィニャーレ(en:Vignale)」が担当していたが、
    のちにジェンセンが担当した。

    初期のインターセプターにはクライスラー製の6.3Lエンジンが使用されていたが、のちに同社製の7.2Lエンジンに変更された。

    それに関連して同年にはサルーン「FF」の発売が開始された。
    これはファーガソン研究所(en:Ferguson Research Ltd.)の開発したフルタイム4WDの技術が採用され、さらにダンロップ製のABSが装備された(これによりFFは世界最初のABS装備市販車の1つとなった)。
    FFは1971年まで生産された。

    ジェンセンはオースティン車をベースにしたスポーツカーの生産を計画していたが、BMCにより1952年に却下された。
    しかし交渉の末オースチン・ヒーレー 100のボディ生産を1952年から1966年まで担当することになった。

    さらにその後ボルボと、ボルボ・P1800のボディ製造の契約を結ぶことに成功し、別の企業で製作されたボディパネルをジェンセンが受け取り、完成させる事になった。

    他にもジェンセンは1960年代前半にイギリスのサンビームが製造していたスポーツカー「サンビーム・タイガー」の開発にも関与していた。

    ジェンセンは1959年に「Norcros Group」の傘下に置かれ、
    1966年にはアランとリチャードが意見の相違によりジェンセンを去った。

    1970年には自動車販売業者ジェル・クヴェールがジェンセンの筆頭株主となり、ドナルド・ヒーリーが会長に迎えられた。

    しかしジェンセンは、
    1973年の第一次石油危機で大型モデルの売れ行きが悪化した。
    そして1975年夏に経営危機に陥り、
    事実上の倒産に追い込まれたが、
    まだ発注を抱えていたため管財人の元でしばらく
    操業を続けたのち、1976年5月についに廃業した。

     
     

    イギリス・ボクスホール

    西暦 etc 企業名 概要
    1857年1903年ボクスホール
    ボクスホール(Vauxhall /ˈvɒksɔːl/)は、イギリスの自動車メーカーであり、ステランティス N.V.傘下のオペルの子会社である。

    1857年に実業家で技術者のアレクサンダー・ウィルソンがロンドン近郊のランベスに設立した機械メーカー、『ボクスホール・アイアン・カンパニー』(Vauxhall Iron Company )が前身。その初期には船舶用の蒸気機関やポンプなどを多く手がけていた。1892年に経営危機に陥ったのち、経営再建の過程で1897年には『ボクスホール・アイアンワークス』(Vauxhall Ironworks )と改称した。

    1900年頃からガソリン自動車製造を目論み、社内の主任技術者F.W.ホッジスの設計で1903年に単気筒1,000ccの小型車「5h.p.」を発表して自動車業界に参入した。その初期には堅実で丈夫な小型から中型車のメーカーとして発展する。1905年発表の「18h.p.」では、ボンネットの両肩部分に凹んだライン(フルート)を入れるデザインを取り入れ、以後1959年までの車に共通するデザインモチーフとなった。

    1905年には、当時工場誘致活動があったロンドン北方ベッドフォードシャーの農村ルートンに新工場を建設し、自動車生産拠点を移転した。ルートンは偶然にもボクスホールの語源であるファーク・レ・ブレアントの出た所領地であった。翌1906年、隣接する工場のあったウェスト・ハイドロリック・エンジニアリングと合併し、『ボクスホール&ウェスト・ハイドロリック・エンジニアリング・カンパニー』となったが、更に1907年には自動車生産部門を他部門から切り離す形で独立させ、『ボクスホール・モーターズ・リミテッド』となった。

    比較的高価なモデルを少量生産するボクスホールの経営は元々不安定で、第一次世界大戦後には外国企業の参入などによる市場競争激化の影響を受け、経営不振に陥った。1922年からは量産型の中型車を生産するなど、マス・プロダクションへの志向を見せるようになるが経営状況の困難さは変わらず、1925年には257万5,000ドルでアメリカの大手自動車メーカーであるゼネラルモーターズ (GM) に買収された。

    第二次世界大戦後のボクスホールは、終戦翌年の1946年から乗用車生産を再開したが、以後1960年代初頭までのモデルは、1.5リッター級4気筒と2.3〜2.6リッター級6気筒の2系統に絞られた。何れもアメリカ車の影響著しい若干派手目のデザインと、保守堅実なメカニズムとを兼ね備えた、当時のイギリスにおける典型的な実用車であった。しかしブリティッシュ・フォードやBMCなど上位メーカーの台頭に押され、メーカーとしての存在感の薄さは否めない傾向にあった。

    2017年3月3日、GMはグループPSA(Groupe PSA)へ、ボクスホールとオペルの自動車事業全体、およびブランド使用権の売却について暫定合意したことを発表。また3月6日、およそ22億ユーロにて売却することに合意と発表した。

     

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    イギリス・ロールスロイス

    西暦 etc 企業名 概要
    1906年1906年ロールス・ロイス
    ロールス・ロイス(英: Rolls-Royce)の起源は、
    1906年3月にイギリスで設立された製造業者であるロールス・ロイス社 (Rolls-Royce Limited) であるが、
    現在は相互に独立した以下の二社となっている。

    1:1973年に設立され、航空機エンジンや船舶・エネルギー関連機械などを製造・販売しているイギリスの工業メーカー、ロールス・ロイス(→ ロールス・ロイス・ホールディングス)

    2:ドイツの自動車会社BMWが1998年に設立し、「ロールス・ロイス」ブランドの乗用車を製造・販売している自動車会社(→ ロールス・ロイス・モーター・カーズ)


    1906年3月に設立されたロールス・ロイス社 (Rolls-Royce Limited) は、航空機用エンジンや乗用自動車の製造を行うイギリスのメーカーであった。


    1931年には同じイギリスのスポーツカーメーカーであるベントレーを買収するなど規模を拡大し、
    特に乗用車製造においては高級車の代名詞となった。

    第二次世界大戦をきっかけにジェットエンジンの製造技術を蓄積し、数々の革新的な航空機用エンジンを世に送り出し、西側諸国の安全保障上重大な役割を担うまでに成長した。

    しかしながら1960年代になると、乗用車製造における技術革新の遅れ、更には新たに開発・発売した航空機用ジェットエンジン「RB211」による損失の拡大などのために経営が悪化した。

    そのまま1971年4月に経営破綻、イギリス政府によって国有化された。


    1973年、国有会社となっていたロールス・ロイス社のうち自動車部門(ベントレーを含む)のみが分離され、
    イギリスの製造会社・ヴィッカースに譲渡された。

    この再び民営化された自動車部門は、
    ロールス・ロイス・モーターズ (Rolls-Royce Motors) と命名され、ロールス・ロイス車の製造・販売を継続することとなった。

    1998年、
    ヴィッカーズはロールス・ロイス・モーターズの売却を計画、
    最高額を提示したフォルクスワーゲンがその買収に成功した。

    しかしながらこの際、ロールス・ロイスのブランド名やロゴタイプなどはBMWに譲渡されるという捩じれが生じている。

    その後、フォルクスワーゲンとBMWの協議の結果、2003年1月からはロールス・ロイスの製造販売はBMWが、
    ベントレーの製造販売はフォルクスワーゲンが行うこととなった。

    BMWは同年、ロールス・ロイス・モーター・カーズという自動車会社を設立、
    社屋や工場を新築し、独自に開発した
    「ロールス・ロイス」の製造販売を開始した。


    一方、国有企業として残存したロールス・ロイスでは航空機用エンジンや船舶の製造などが行われていたが、1988年に再度民営化され、新生ロールス・ロイス(ロールス・ロイス・ホールディングス)として現在に到っている。

    1919年1919年ベントレー・モーターズ
    ベントレー・モーターズ(Bentley Motors Limited)は、イギリスの高級車およびSUVの製造・販売会社で、1998年からフォルクスワーゲングループの傘下に入っている。


    1919年8月、ウォルター・オーウェン・ベントレーはベントレー・モーターズをロンドンのクリックルウッドに設立。

    その後、1924年-1930年にル・マン24時間レースで5回の優勝を飾るなどモータースポーツで名を上げ、高性能スポーツカーメーカーとして世界の富裕層に好んで使用された。

    しかしその翌年の1931年にロールス・ロイスに買収され、レース活動が封印された。

    1998年、ヴィッカースはロールス・ロイス(ベントレーを含む)の売却を決定、ドイツのフォルクスワーゲングループがその買収に成功した。この際、同じく買収を試みたBMWとのあいだにトラブルが生じたが、ベントレーについてはフォルクスワーゲンが所有、ロールス・ロイスは2002年までフォルクスワーゲンが生産・販売し、2003年1月からはその権利がBMWに移動することで決着した。

    2004年に登場した2ドアクーペの
    「コンチネンタルGT」は、フォルクスワーゲン・フェートンと大幅なパーツ共有化を図られている。
    ベントレーの生産は2008年、史上最大である年間10,000台規模に成長した後、
    翌2009年には年間5,000台規模にまで急減した。


     

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    イギリス・ジャガー

    西暦 etc 企業名 概要
    1893年1896年デイムラー
    由来はガソリン自動車開発者の1人として名を残すドイツ人のゴットリープ・ダイムラーで、ダイムラーの開発によるガソリンエンジンをイギリスで生産する目的で起業されたことによる。

    日本では、"Daimler" の英語読み表記である
    「デイムラー」または「ディムラー」とすることで、ドイツのダイムラーと区別されている。


    1922年1922年スワロー・サイドカー・カンパニー


    1934年社名をSSカーズへと変更。



    1922年1934年~
    1945年
    SS Cars Ltd
    SSカーズ・リミテッド(SS Cars Ltd )はイギリスの自動車メーカー。

    スワロー・サイドカー・カンパニーから発展してできた会社で1934年にこの名前で登録されている。1945年に社名をジャガー・カーズに変更した。

    →1945年:ジャガー・カーズ

    1922年1945年ジャガー
    社名の「SSカーズ」そしてブランド名の「SSジャガー」は、かつての敵国ドイツ・ナチ親衛隊の略称「SS」と重なり、その好ましくないイメージを想起させるため1945年に変更された。

    社名は「ジャガー・カーズ」、ブランド名は「ジャガー」となった。

    1948年に発表された戦後型スポーツカーのXK120は、その流麗なスタイリングと高性能、また同程度の性能を持つアストンマーティンやベントレーと比べて圧倒的に安価だったことから大人気となり、高級車ブランドとしてのイメージを決定付ける重要なモデルとなった。

    XK120はその多くが、第二次世界大戦後の好景気下にあったアメリカ合衆国向けに輸出され、多大な商業的成功を収め、続いて発展型のXK140やXK150も送り出され、戦災の復興下にあったイギリスの外貨獲得に大いに貢献した。

    また、1950年代にはレーシングカー開発に乗り出し、自動車史上初めての4輪ディスクブレーキを備えたCタイプとDタイプを耐久レースに投入した。

    特にル・マン24時間レースではイタリアのフェラーリやマセラティ、ドイツのメルセデス・ベンツやポルシェなどのライバルを圧倒し3連覇を果たすなど、モータースポーツでの活躍を重ね、名声を確固たるものにしていった[10]。なおこれらのモータースポーツでの活躍は2000年代まで続くことになる。

    さらにXKシリーズや大型サルーンに止まらず、1950年代後期以降はスモールサルーンのマーク2、全輪独立懸架のスポーツカー・Eタイプなどの高性能車を市場に送り出し、世界最大の自動車市場であるアメリカ合衆国での販路を拡大する。ジャガーはアメリカ市場で成功し、イギリスの外貨獲得に大きく貢献することになる。1956年、ウィリアム・ライオンズはイギリス王室より「ナイト」の称号を授かる。

    1960年に、ジャガーは高級車メーカーのデイムラーを340万ポンドで買収する[注釈 3]。当時のジャガーはマーク2の販売好調により工場を拡大する必要に迫られており、ジャガーは同じコヴェントリーのデイムラーを傘下に収めることでそれを実現した。

    ブランド自体は残されたものの、その後のデイムラーの主な車種はジャガーのバッジエンジニアリングモデルで占められるようになるが、フロントグリル上端に細かい波型模様が付けられた「フルーテッド・グリル」は、デイムラーの特徴として残ることになる。


     

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    イギリス・BMC

    西暦 etc 企業名 概要
    1905年1905年オースチン
    オースチン・モーター・カンパニー

    1905年創立。1952年にブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)傘下企業となったが、BMC後継企業の自動車ブランドとして1987年まで使用された。現在、中華人民共和国の有力メーカー、南京汽車がその商標権を保持している。オースティンと表記される場合もある。

    のちハーバート卿と呼ばれるハーバート・オースチン(1866–1941)はウーズレー・ツール&モーター・カー・カンパニーの工場長で、ウーズレー社で1896年には自動車を製作していた。1905年にオースチン・モーター・カンパニー(The Austin Motor Company)をロングブリッジに設立し、のちウスターシャーに移る(ロングブリッジは1911年にバーミンガムとなっている)。最初の車は保守的な排気量5リッター直列4気筒のチェーン駆動モデルで、5年間で約200台を生産した。第一次世界大戦中英国政府の調達を受け、大砲から飛行機まであらゆるものを製造し、2,500人だった従業員は2万2,000人へと増えた。これによりオースチンは大変な成長を遂げた。

    戦後、ハーバート・オースチンは3.620 cc、出力20 hpのエンジンを中心としたワンモデル・ポリシーを掲げる。一つのエンジンで乗用車、商用車、そしてトラクターまでをも製作しようとしたものの、膨れ上がった工場規模を満たすだけの需要は起きず、1921年に管財人の手に委ねられる。しかし、そこで金銭面を整理したのち会社は再び開花することになる。1922年、1,661 ccのオースチン・12(トゥエルブ)、続いてオースチン・ 7(セブン)が小型車市場に投入された。

    特に7は、小型で簡素、そして価格を抑えるなど、かなり早い時代に大衆車市場を狙ったモデルと言える。しかも、ドイツのBMWが最初の自動車として発売したデキシー(Dixi)をはじめ、米国のバンタム(Bantam)、フランスのローザンギャール(Rosengart)でもライセンス生産が行なわれるなど、大きな成功を収めた。日本のダット自動車が製作したダットソンは、ライセンスを受けていなかったが、「7」の車両デザインを使用し、非常に似た車両となっている[1]。日産自動車の社史では触れられていないが、オースチンの社史では日産との関係があることが触れられている

    1929年から1934年までは米国子会社がアメリカン・オースチン・カー・カンパニー(American Austin Car Company)として活動した。この会社は1937年から1941年にはアメリカン・バンタム(American Bantam)として再興している。

    1952年1952年
    第二次世界大戦中も、オースチンは車の製造を続ける一方で、トラックと飛行機も生産した。1944年には後に戦後型となる車を発表し、1945年に生産を開始している。戦争直後のシリーズは1930年代後半のものと大きく変わってはいなかったが、オースチン初の16hpOHVエンジンを搭載していた。

    1952年にナッフィールド・オーガニゼーションと合併し、ブリティッシュ・モーター・コーポレーション (BMC)となる。レオナルド・ロードがBMCでもトップとなり、オースチンは新会社での覇権を握った。ここでオースチン製エンジンがほとんどの車で使われるようになる。





    また、1952年、日産自動車とオースチン車2000台をノックダウン生産し、オースチン・ブランドで販売する契約を結ぶ。この契約には3年以内に部品すべてをローカライズ(日本国の視点では「国産化」)する条項も盛り込まれていた。A40にはデボン(Devon)、サマーセット(Somerset)、ケンブリッジ(Cambridge)の3世代があり、日産自動車はノックダウンでサマーセットを組立・販売した。

    英国でのA40は、1954年にサマーセットからモノコックボディとなったケンブリッジへ置き換えられていた。ケンブリッジはA40、A50、A55、A60の各モデルが作られたが、日産自動車は1.5リットルエンジンのA50を選択、ノックダウン生産を継続し、販売した。部品は順次日本製に置き換えられ、1956年からは全ての部品が日本製となり、A50は以後「完全国産化」されて販売されたが、当時の日本車としては超高級車だった。のちにセドリックがその後継となる。



    ミニ誕生

    1956年、スエズ危機終結により石油の枯渇がささやかれると、ロードはアレック・イシゴニスに新車の開発を依頼、その結果、革命的といわれるMini(ミニ)が1959年に誕生する。ミニはモーリスとオースチンの2つのブランドから販売され、それぞれの車名は、モーリス版が「ミニ マイナー」、オースチン版が「7(セブン)」となった。


    横置きエンジンの前輪駆動で、ギアボックスをオイルパン内部に置き、エンジンオイルをその潤滑にも使うというイシゴニスのパッケージコンセプトは、1963年のオースチン・1100、1964年のオースチン・1800、1969年のオースチン・マキシ、1973年のオースチン・アレグロ、1980年のオースチン・メトロに至るまで貫かれている。




    1982年に、ブリティッシュ・レイランドはオースチン・ローバー・グループと社名を変更。

    オースチンは「低価格ブランド」と位置づけられる。メトロ、マエストロ、モンテゴでのつくりの悪さと錆の問題が悪評を呼び、オースチンブランドは1987年に終息する。

    なお1979年にオースチン・ローバー・グループは日本の本田技研と提携し、1980年代に入り、トライアンフやローバーブランドでホンダのモデルをベースにしたバッジエンジニアリング車や共同開発車種を送り出した。

    その後オースチン・ローバー・グループはローバー・グループへと名称を変更し、さらに1988年には経営権をブリティッシュ・エアロスペース・グループへと売り渡すこととなった。




    オースチンの商標権は1995年に行われたローバー・グループの買収によりBMWに渡り、その後MGローバーに売却された。しかし、MGローバーの破綻により、現在では歴史的価値のあるロングブリッジの組立工場とともにオースチン・ブランドは、中華人民共和国の南京汽車が所有するところとなっている。2006年5月の南京国際博覧会において、南京汽車のワン社長は「オースチンの名前はMGローバーモデルの改良版に使用するかもしれない、少なくとも中国国内市場では」と語っている。

    1952年1952年オースチン・ヒーレー
    このブランドは、1952年にブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)・オースチン部門のレナード・ロードと、著名な自動車エンジニア兼デザイナーであるドナルド・ヒーリーとの間に結ばれた合弁事業合意により誕生した。オースチン・ヒーレーでは、1972年の20年間という合意期限満了まで、自動車生産が続けられた。

    1898年1913年 バンデン・プラ
    1898年にベルギーで馬車の車体を製造するコーチビルダー Carrosserie Van den Plasとして発足し、
    1913年、イギリスに自動車のボディを制作する支社を設立した。

    イギリスのバンデン・プラは本国とは別に独自の経営を促進し、ロールス・ロイスやベントレー等のボディ制作を請け負い、地位と名声を得ていった。

    第二次世界大戦後、世界的不況の中でイギリスの自動車産業は打撃を受け、他の中小自動車メーカーが大手に吸収合併される中、バンデン・プラもオースチンに吸収され、オースチンの大型セダンをベースにした高級車をリリースした。
    これが最初の「バンデン・プラ・プリンセス」である。

    1913年1913年モーリス 
    1913年に自動車生産を開始したモーリス自動車(Morris Motor Company)を起源とし、
    1930年代以降はより大きな自動車会社の一部門、
    もしくはブランドとなっていた。

    モーリスの名前を冠した自動車は、BL社の乗用車「モーリス・アイタル(Morris Ital)」の販売が終了した1984年がその最期となった。

    1924年1924年MG
    MG(エム・ジー)は、イギリスのスポーツカーのブランドである。一般的にはMGは元々、「モーリス・ガレージ」(Morris Garages)を略したものであるとされている



    1887年1899年ウーズレー
    1887年、フレデリック・ヨーク・ウーズレーがウーズレー羊毛刈込機械会社(Wolseley Sheep Shearing Machine Company Limited)をオーストラリア・シドニーで創業する。羊毛刈込機械の製造でも初期のことであった。

    英国、バーミンガムに移り、ウーズレー・エンジニアリング・リミテッドを設立。
    特許をベースに羊毛刈込機械をさらに伸ばし、
    また農業用機械なども生産し、据置型エンジンもそのひとつだった。
    ここでハーバート・オースチンが工場長となり、自動車を製作することになる。

    当時の英国は、まだ赤旗法

    (1856-1896:自動車条令ともいわれる。路上を走る自動車は、人が歩いて先導しなければならない。日中は赤い旗をふりながら。夜はランタンをもって。英国での自動車産業の進歩を止めた31年)

    の時代で、翌年の1896になりようやく廃止となる。

    このため、産業革命で世界の先端を走っていた英国において、自動車産業だけは育成されず、フランスやドイツに先を越されてしまっていた。



    1890年ライレー
    英国コヴェントリーで ボニック・サイクル・カンパニー(Bonnick Cycle Company )として創業していた会社を1890年ウィリアム・ライレー・ジュニアが買収し、ライレー・サイクル・カンパニー(Riley Cycle Company )と社名を変更。その後自転車のギアを製造していたスターミー・アーチャー(Sturmey Archer )も買収し、自転車メーカーとしての規模を拡大していった。

     


    ナッフィールド・オーガニゼーション

    1938年にライレーを買収しナッフィールド(モーリス)の会社であるモーリス・モーター・カンパニーとMGカー・カンパニーと3社合併させたことにはじまる。

    ・ライレー
    ・モーリス・モーター・カンパニー
    ・MGカー・カンパニー

    第二次世界大戦中は、ナッフィールド(モーリス)は軍需生産活動に従事。
    当時の英国軍戦車に搭載されたリバティ L-12エンジンなどを生産していた。

    1939年にはある子会社でMk.V カヴェナンター巡航戦車を生産する機会も得たが、
    独自の開発を行いクルセーダー巡航戦車を開発した。

    またMk.VII キャバリエ巡航戦車にもリバティ・エンジンが搭載されたが
    リバティではその重量に耐え切れず実戦では使用されなかった。

    Mk.VIII セントー巡航戦車とMk.IX クロムウェル巡航戦車も製作された。

    モーリスの商用車も軍用として生産されていた。
    モーリスC8 FATは商用車のモーリスCS8をベースに開発された砲兵トラクターである。

    ・モーリス
    ・ウーズレー
    ・ライレーブランド

    での自動車生産は1945年に復活している。
    トラクター生産も1948年にNuffield Universalとして復活。

    1952年、「ナッフィールド・オーガニゼーション」はオースチンと合併しブリティッシュ・モーター・コーポレーション (BMC)となる。

    1952年1952年BMC
    ブリティッシュ・モーター・コーポレーション

    1952年、イギリスの大手2大自動車製造会社 Austin Motors(オースチン・モータース)と Nuffield Organization(ナッフィールド・オーガナイゼイション)グループが合併し、前者の Austin(オースチン)ブランド、後者の Morris(モーリス)、MG、Wolseley(ウーズレー)、Riley(ライレー)のブランドを所有するイギリス最大の自動車メーカーとなった。

    ・オースチン
    ・モーリス
    ・MG
    ・ウーズレー
    ・ライレー



     

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    イギリス・ルーツグループ

    西暦 etc 企業名 概要
    1888年1901年サンビーム
    サンビーム (Sunbeam)はイギリス・ウルヴァハンプトンのJohn Marston Co. Ltdが1888年に商標登録したトレードマークである。

    同社は最初自転車を、続いてモーターサイクル、自動車製造に進み、それら全てにサンビームのブランドを冠した。サンビームは初めてグランプリレースで優勝した英国車で、数々の速度記録を樹立したことでも知られる。

    1868年1889年Humber
    トーマス・ハンバーが1868年に自転車メーカーとして創業。
    1889年から自動車を製造した。
    1931年にルーツ兄弟が買収し、
    その後はルーツ・グループのブランド名として1975年まで使用された。

    1903年1905年タルボ 
    1903年にフランスのクレメント・バイヤードを輸入販売する企業として、タルボ卿 (w:Charles Chetwynd-Talbot, 20th Earl of Shrewsbury )の出資により設立された。

    1905年にはフランスから完成車を輸入してクレメント-タルボブランドで販売するとともに、部品を輸入してロンドンのノースケンジントンの工場で組み立てタルボブランドで売り始めた。

    1906年から1910年にかけて50〜60台/月の生産を行った。

    1907年1907年から1931年Hillman
    ヒルマン

    1907年から1931年まで活動、のちルーツ・グループ傘下で自動車ブランドとしてその名をつけて生産・販売され、クライスラーUK時点の1976年で終了した。

    ヒルマン車を製造した工場は2006年現在でもプジョーの英国工場として操業を続けているが、2007年での閉鎖がすでに発表されている。



    1918年Dawson Car Company
    ドーソン自動車会社(Dawson Car Company )は1918年6月にAJ・ドーソンが設立した自動車メーカーである。ドーソンは1910年からヒルマン自動車の工場長兼主任技術者だった。ヒルマン時代の代表車にヒルマン・ナインがある。ナインはドーソン退社後の1925年まで4000台程が生産されている。

    1901年1901年シンガーモーターズ
    Singer Motors Limitedは英国の自動車製造業であり、もともとは1874年に英国のコベントリーでGeorge SingerによってSinger&Coとして設立された自転車メーカーでした。Singer&Coの自転車製造は継続されました。1901年からGeorgeSingerのSingerMotorCoは自動車と商用車を製造しました。

    Singer Motor Coは、大型車のレプリカである小型エコノミーカーを製造した最初のモーターメーカーであり、小型車が実用的な提案であることを示しました。

    他の同様のサイクルカーよりもはるかに頑丈に作られました。

    その4気筒10馬力エンジンを備えたシンガーテンは、オリンピアでの1912サイクルおよびモーターサイクルショーで発売されました。

    ウイリアムズ・ルーツは、開発当時の歌手の見習いであり、自動車のセールスマンであり、初年度の供給全体である50を購入する契約を結んでいました。
    ベストセラーになりました。

    最終的に、シンガーの事業は彼のルーツグループによって買収されました1956年、
    ルーツがアメリカンクライスラー社に買収されてから数年後の1970年までブランドを継続しました。


    シムカ

    (フランス)

    シムカ(Simca )は1934年にアンリ・テオドル・ピゴッツィ(Henri Théodore Pigozzi 、1898-1964年)が設立した自動車メーカー。

    SIMCAとは「自動車車両車体工業会社」(Société Industrielle de Mécanique et Carrosserie Automobile )の略。

    1963年にクライスラーに買収され、
    1970年にはイギリスのルーツ・グループとともに「クライスラー・ヨーロッパ」を形成した。

    その後、1978年にクライスラーがヨーロッパ事業をPSA・プジョーシトロエンに売却した際、
    シムカブランドはルーツ・グループ系の他ブランドとともにタルボに統合され、廃止された。



    ルーツ・グループ
    1919年にウィリアム・ルーツ (William Rootes) が、自動車ディーラーとしてイギリスのケントで創業した。ルーツ社は、1924年までには同国で最大の乗用車・トラック販売会社となった。

    ・ヒルマン
    ・ハンバー

    1929年、自動車会社ヒルマンやハンバー等を買収することによって自動車メーカーとなった。

    ・サンビーム
    ・タルボ

    さらに1935年には、サンビーム、タルボといった複数の自動車メーカーを買収し、傘下におさめた。

    ・シンガー

    第二次世界大戦後には、自動車会社シンガーを1956年に買収した。

    1950年代後半、ルーツ・グループは、
    ブリティッシュ・モーター・コーポレーションに次ぐ、
    イギリスで第二の規模の自動車メーカーであった。

    1960年代、アメリカの自動車会社クライスラーが段階的に資本参加して子会社化した。

    シムカ

    1967年、同じく子会社とした自動車会社シムカとルーツ・グループとを併せて、
    クライスラーの欧州法人「クライスラー・ヨーロッパ」とした。

    ルーツ・グループに由来するバンやトラックは、1976年までにすべてダッジ・ブランドとなった。

    ルーツ・グループに由来する自動車ブランドが冠される乗用車も、1977年までにはすべて消滅した。

    クライスラー・ヨーロッパ社は1977年に倒産、翌1978年にPSA・プジョーシトロエンが買収した。

    一時タルボのブランド名使用が復活したが、1987年には再び消滅した。


     

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    イギリス・レイランド

    西暦 etc 企業名 概要
     レイランド・モーターズ
    レイランド・モーターズ(Leyland Motors )は、かつて存在したイギリスの商用車(トラック・バス)メーカー。1968年にブリティッシュ・モーター・ホールディングス と合併してブリティッシュ・レイランドとなる。

    レイランド・モーターズは長い歴史を持つ会社で、1896年サムナー (Sumner) 家、スプリエ (Spurrier) 家が英国北西部のレイランドに「ランカシャー・スチーム・モーター・カンパニー(ランカシャー蒸気自動車会社)」を創業したのがその起こりである。最初に製作した車両は積載量1.5トンの蒸気エンジン車のバンだった。「ランカシャー・スチーム・モーター・カンパニー」は1907年にプレストンのクルサード (Coulthards) を買収し、社名を「レイランド・モーターズ」とし、第二工場をとなり町のコーリー(英語版)に建設する。ここには現在でも「LEXリース&パーツ・カンパニー」の本社がある。

    1920年、レイランド・モーターズは豪華なツーリング仕様の乗用車「グランド・ツアラー」 (Grand Tourer) やレイランド8(Leyland Eight 、1920-1923年)を生産した。

    その対極として、キングストンのテムズ工場ではトロージャン・ユーティリティー・カー (Trojan Utility Car) がある。これは1922年から1928年にかけて生産していた。

    レイランド・モーターズは他の車両製造企業同様戦時生産体制となり、1939年頃から軍用3tトラックのレイランド レトリバー、1943年からは巡航戦車Mk.IX クロムウェル を生産した。戦後も巡航戦車センチュリオンの生産を続けている。

    1946年にAssociated Equipment Company (AEC) とレイランド・モーターズがBritish United Traction Ltd.を結成。

    1955年には、インドのアショック・モーターズに資本参加し、社名をアショック・レイランドに変更して商用車の現地生産を行った。 一方レイランド・モーターズは戦後1951年にAlbion Motors、1955年にScammell Lorries Ltd、1960年にスタンダード・トライアンフ[注釈 2]、1962年にAssociated Commercial Vehicles、which incorporated AEC、Thornycroft、Park Royal Vehicles、Charles H. Roe、1965年Bristol Commercial Vehicles、Eastern Coach Works、1967年ローバーと相次いで買収している。

    1958年から2階建バスの名車レイランド・アトランティアンの生産を開始した。

    レイランド・モーターズ創業時からのスプリエ家による同族支配はすばらしい労使関係を築いており、ストライキなどの労働争議を一度も起こすことがなかったことも評価され、戦後も成功していたが、1942年からの3代目サー・ヘンリー・スプリエが1964年に引退することで終了した。ドナルド・ストークス (Donald Stokes) が会社のトップとなった。

    1968年にブリティッシュ・モーター・ホールディングス (BMH) と合併しブリティッシュ・レイランド (BLMC) が誕生する。BMHにはデイムラー、ガイ、オースチン、モーリスといった英国の自動車、バス、コーチのきらめくブランドが並んでいた。

    しかしBLMCグループの企業運営は困難を伴った。会社が多かっただけではなくそれぞれが同じような品揃えであったからである。1974年12月ブリティシュ・レイランドは英国政府の保護下となる。

    1975年ライダー・レポートが発行され、BLMCは国有化されBLとなり社内は4つの事業部に分割された。バス、トラックはレイランド・トラック&バスとなったがこれは1981年にはさらにレイランド・バスとレイランド・トラックに分割された。1986年BLは社名をローバー・グループと変更。アショック・レイランドの保有株はランドローバー・レイランド・インターナショナル・ホールディング (LRLIH) に渡り、さらに1987年に売却された。


    1896年1907年レイランド・トラック


    会社の起源は、後に国営企業・ブリティッシュ・レイランド(BL)の一部となったレイランド・モータースである。BLの事業再編後はオースチン・ローバー・グループ(ARG)に属したが、ARGの事業再編によってオランダ・DAF社のトラック部門と合併した。しかし、数年後にはDAFの倒産によって独立企業となり、アメリカのパッカーによる買収・子会社化を経て現在に至っている。

    1896年 - ランカシャー・スチーム・モーター・カンパニー(Lancashire Steam Motor Company 、ランカシャー蒸気自動車会社)として創立される。

    1907年 - 社名をレイランド・モータースに変更する。



    1903年1903年Standard Motor Company
    スタンダード・モーター・カンパニー




    1885年1889年


    1885年~ 1984年
    Triumph Motor Company
    トライアンフ・モーター・カンパニー

    トライアンフの始まりは、ジークフリート・ベットマンが1885年に創立した S. Bettmann & Co であり、
    同社はヨーロッパから自転車を輸入し、
    自身の名を付けてロンドンで販売していた。

    「トライアンフ」の商標は翌年に定められ、
    1887年にベットマンはパートナーのモリッツ(モーリス)シュルトと手を組んだ。

    1889年に両者はコヴェントリーで自身の手による自転車の製造を始めた。


     
    1901年1901年ローバー 
    1901年にローバー社 (Rover Company) が自動車の生産を始めて以来、イギリスを代表する自動車会社/自動車ブランドとして存在していたが、2005年をもって、その名前を冠する自動車会社や自動車モデルは消滅した。ローバーから派生したブランドとして、現在インド・タタ自動車傘下の「ランドローバー」がある。





    1967年、ローバーはレイランド・モーターズ (Leyland Motors) に買収された。

    1968年、当時の親会社、レイランド・モーターズはブリティッシュ・モーター・ホールディングス (BMH) と合併し、
    「British Leyland Mortor Company」が設立された。

    同社のもとにはローバーの他、ジャガー、デイムラー、MG、オースチンなど、当時のイギリスの主要自動車メーカーの大部分にあたる10ブランドが存在していた。1970年にはランドローバーの発展形である高級四輪駆動車としてレンジローバーが発売された。

    しかしブリティッシュ・レイランドでは労働争議の多発を背景に生産が停滞したばかりでなく、ローバーのような高級車種も含む多くのモデルの品質が甚だしく悪化し、市場からの支持を急速に失った。1975年、破産寸前となった同社は半国営化され、持ち株会社「British Leyland Mortor Corporation Ltd. (BLMC)」のもとに再組織された。

    1976年に発売されたローバー・SD1は、斬新なデザインを備えたアッパーミドルセダンで、ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したが、車格に見合う品質が伴わず、商業的には失敗作となった。1978年、持ち株会社は「BL社 (BL Ltd.)」と改称した。

     
    品質の不良などによりBL社の販売は低迷、1979年、同社は日本の本田技研工業(ホンダ)との提携を行った。資本提携として、ホンダがBL社株の20 %を取得し、BL社はホンダ英国子会社株の20 %を取得した。1981年には、BL社のトライアンフブランドから、ホンダ・バラードの現地生産車がトライアンフ・アクレイムとして発売されている。

    1982年、BL社内の大衆車部門として、オースチン・ローバー・グループ社が組織された。ホンダとの提携は依然として継続され、ホンダ・バラードをベースとした初代ローバー・200が誕生した。また、オーストラリアではバッジエンジニアリングによって、ホンダ・クイントがローバー・クイント、ホンダ・クイントインテグラがローバー・416iとして販売された。

    1986年、オースチンローバーグループは、「ローバー・グループ (Rover Group PLC)」に改称し、その自動車部門は「ローバー・カーズ」となった。同年、ホンダ・レジェンドと同時開発されたローバー・800が発売、スターリングの名称でアメリカ合衆国にも輸出された。

    1988年、再び民営化されたローバー・グループは、航空機メーカーであるブリティッシュ・エアロスペースに買収され、同社傘下となった。ホンダとの提携は良好な関係で継続され、1994年には過去最高の収益を計上する見通しであった。

    1994年、突如としてドイツの自動車会社BMWがローバー・グループを買収し、経営権を得る寸前であったホンダとの提携は解消された。1999年に発売されたローバー・75は、BMW主導の設計で開発されたモデルとなったが、エンジン本体のトラブル、そして劣悪な整備性に伴う高額な維持費などの問題が発生した。2000年までの6年間に及んだBMWによるローバー・グループの経営はまったく悲惨な状況であった。

    2000年、BMWはローバー・グループを分割、ローバー部門はイギリスの投資グループ、フェニックス・コンソーシアム(代表者はジョン・タワーズ。元ローバーグループ会長)に僅か10ポンド(当時の日本円で約1,660円)で売却した。ランドローバー部門はフォード・モーターに売却され、ローバー、Mini、ライレー、(四輪の)トライアンフのブランド名は、BMWが引き続き保有した。

    ローバー部門を買収したフェニックス・コンソーシアムは同年、同部門をMGローバーグループ (MG Rover Group) と改称するとともに、MGブランドの充実を図った。2003年にはインドのタタ・モーターズと技術・資本提携した。タタの小型車「インディカ」を「ローバー・シティローバー」として輸入販売するなどし、2004年には自動車製造100周年、ローバー累計生産台数は500万台達成を祝賀した。しかしながらシティローバーは完成度が低く、75以外のローバー各車の基本設計は1990年代以前のホンダと提携していた時代のままで旧態化と陳腐化が著しく、経営は低迷した。

    2005年4月、前年から続いていたMGローバーと中国の上海汽車集団 (SAIC) との業務提携協議が決裂、MGローバーはイギリス政府破産管財人の監理下に置かれた。同年7月、MGローバーはMGブランドの知的財産権と資産・工場等を含む会社本体を中国の南京汽車に売却した。

    2006年8月、BMWがローバーブランドを上海汽車に売却することで合意したと報じられたが、ランドローバー買収時にローバーブランドに関する優先権も獲得していたフォードが売却に拒否権を行使したため不成立に終わった。フォードは9月には優先買収権利を行使してローバーブランドをBMWより買収した。ローバー社本体・資産とローバー・ブランドが離散したことにより、これをもってローバーは事実上消滅した。

    ローバーブランドの買収に失敗した上海汽車はローバー・75などの一部知的所有権と生産設備を買い取り、「栄威 750」と称して中国国内で製造、2006年から販売している。

    2008年3月、フォードはローバーとデイムラーの商標を含むジャガーとランドローバーをインドのタタ・モーターズに23億ドルで売却した(後のジャガーランドローバー)。現在、ローバーの商標権は同社が所有しているが、ローバーの名称を冠する自動車は製造・販売されていない。

     
    1919年1919年から1967年アルヴィス

    アルヴィス・カー・アンド・エンジニアリング・カンパニー・リミテッド


    アルヴィス・カー・アンド・エンジニアリング・カンパニー・リミテッド(Alvis Car and Engineering Company Ltd. )は、
    1919年から1967年まで乗用車を製造したイギリスの自動車メーカー。

    ローバーとともにブリティッシュ・レイランド傘下となっていたが、1981年にユナイテッド・サイエンティフィック・ホールディングス(United Scientific Holdings plc )が買収し、傘下に置いた。

    その後、ユナイテッド・サイエンティフィックは社名をアルヴィス plcとする。

    ホーリーヘッド・ロードにあったアルヴィスの工場跡地は現在、郊外のショッピングセンターとなっており、その名称アルヴィス・リテール・パーク(Alvis Retail Park )にその痕跡をとどめている。


    乗用車以外にも航空機エンジンおよび軍用車両も製作した。軍用車両は2004年まで生産された。

    ただし2009年に、レッド・トライアングル社がアルヴィス自動車商標の譲渡交渉に乗り出しこれを取得。

    翌2010年よりかつてのモデルをハンドメイドで再び製造・販売することを発表した。

    日本でも2019年以降”新車”の販売が始まっている。



     

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    イギリス・BMH

    西暦 etc 企業名 概要
    1966年
    BMH
    ブリティッシュ・モーター・ホールディングス

    英国産業界が停滞していた時代に英国労働党が政権につく。ウィルソン内閣(1964–1970)は、より一層の合併を推進することによって打開できるとし、特に自動車産業がその対象とされた。

    クライスラーがルーツ・グループを買収。

    レイランド・モータースはスタンダード・トライアンフ社を買収。

    ローバー社は英国自動車産業の主要な担い手となっていた。

    一方、BMCは英国国内市場でのシェアを極端に落とし、1966年に自動車ボディ製造業のPressed Steel社とジャガー社と共にブリティッシュ・モーター・ホールディングとして合併した。

    ・BMC
    ・ジャガー


    1968年British Leyland 
    ブリティッシュ・レイランド

    1968年、ブリティッシュ・モーター・ホールディングス(BMH)とレイランド・モータース(Leyland Motors)との合併による「British Leyland Mortor Company」として設立され、同社のもとにはローバー、ジャガー、デイムラー、MG、オースチンなど、当時のイギリスの主要自動車メーカーの大部分にあたる10ブランドが存在していた。

     
     

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    イギリス・オートバイ

    西暦 etc 企業名 概要

    Triumph Motorcycles Ltd 
    トライアンフ・モーターサイクル

    1902年には、他社製エンジンを自社製フレームに搭載したオートバイナンバー1を生産。

    やがて1905年にはエンジンも含めたほぼ完全な自社生産車が登場、
    1906年には社名も「トライアンフ・エンジニアリング」(Triumph Engineering Co.Ltd )となった。

    トライアンフの生産したオートバイはやがて1907年からはじまったマン島TTレースで活躍、その完走率の高さで高い信頼性を見せ、高品質かつ比較的安価であるという評価を獲得する。

    その後1914年からはじまった第一次世界大戦では、3万台以上のモデルHがイギリスおよび連合軍の軍用車として使用され、その頑丈さと走破性から高い評価を受けた。

    1920年代には自動車会社・ドーソンのコヴェントリー工場を購入しており、1923年、「トライアンフ・モーター・カンパニー」として、4輪自動車を発売した。

    1929年の世界恐慌により再び業績が悪化したトライアンフは、1932年には自転車部門をラレー自転車に売却。

    オートバイ部門では新たな主任技師ヴァル・ペイジを迎えて新規車種の開発をはじめた。

    1934年には社名を「トライアンフ」(Triumph Co.Ltd )へ変更して改革を推し進めようとするが、
    自動車部門が財政を圧迫する。

    1936年、オートバイ部門は自動車部門から切り離され、オートバイ会社・アリエルを再生させた実業家、ジャック・サングスターに買収された。



    ノートン


     ワトソニアン・スクワイヤー
    ワトソニアンスクワイアは、オートバイに取り付けるためのサイドカーとトレーラーの英国メーカーです。

    元の事業は、1912年に英国バーミンガムのバルサルヒースにあるPatent Collapsible SidecarCompanyLtd.としてThomasFredrickWatsonによって設立されました。

     MUTT Motorcycle

    マットモーターサイクルズ




    ROYAL ENFIELD
    (インド)
    ロイヤルエンフィールド


     




    BSA


    1847年アリエル 
    オートバイ

    1919年1919年ブラフ・シューペリア
    ブラフ・シューペリア(Brough Superior motorcycles)はかつてイギリスに存在したオートバイメーカー。日本では表記のぶれが激しく、ブラフ・シュペーリア、ブラウ・シューペリア、ブラウ・シュペーリア、ブロウスペリアなどとも。単にブラフと呼ばれる場合も多い。

    1919年、ジョージ・ブラフ(George Brough 、1890年4月21日 - 1970年1月12日)がやはりオートバイ製造を行っていた父親ウィリアム・E・ブラフ(William E. Brough )の会社から独立する形で興した。

     

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    イギリス・商用車とトラック

    西暦 etc 企業名 概要

    レイランド・バス




     
    1856年Foden Trucks
    フォーデン・トラック

    フォーデン・トラック(Foden Trucks )は、
    かつてトラックの製造を行っていたイギリスのメーカーである。

    イングランドのチェシャー・Congleton・Sandbachで1856年に創立された。
    1980年にパッカーに買収され、
    2006年に「フォーデン」ブランドのトラック製造が中止された。

     
    1933年1933年ERF 
    ERF(イーアールエフ)はイギリスの貨物自動車メーカー。

    1933年、フォーデン・トラック創業者であるエドウィン・フォーデン(Edwin Foden)の息子、
    エドウィン・リチャード・フォーデン(Edwin Richard Foden)によって設立される。

    その後、MANに買収されたことでミドルウィッチにある工場は
    2002年3月に閉鎖し、事業はMANに合併され、
    2007年7月、親会社であるMANの方針により
    ERFブランドは廃止された。
    なお、社名であるERFは創業者の頭字語に由来する。

     

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    イタリア自動車産業

    西暦 etc 企業名 概要

    フィアット

    アルファロメオ

    マセラティ

    ランチア

    フェラーリ

    ランボルギーニ

    ブガッティ

    デ・トマソ

    パガーニ・アウトモビリ

    ベルトーネ

    ダラーラ

    エストリマ

    チゼータ

    イソ

    オスカ

    アウトビアンキ

    DRモーター・カンパニー

    マザンティ・アウトモビリ


    モレッティ

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    イギリス・Kit Car・レプリカ・etc.

    西暦 etc 企業名 概要
     Pilgrim Cars
    Pilgrim Carsは、英国の自動車メーカーです。





     
     

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    トラック・イタリア

    西暦 etc 企業名 概要

    イヴェコ

    ペルリーニ
     
     
     


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    オートバイ・イタリア

    西暦 etc 企業名 概要

    カジバ
     

    ドカティ

    モト・グッツィ

    アプリリア

    ピアッジオ

    ジレッラ

    MVアグスタ

    ビモータ

    アディバ

    イタルジェット

    ベスパ

    ベータ (オートバイメーカー)

    マラグーティ

    マーニ (オートバイ)

    モト・ヴィラ

    ベネリ
     

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    オートバイ2・イタリア

    西暦 etc 企業名 概要

    アエルマッキ

    ランブレッタ

    ビアンキ (オートバイ)

    ラベルダ

    モト・モリーニ

    モルビデリ

    モレッティ (自動車)

    FBモンディアル

    ガッザニーガ (オートバイ)

    ガレリ

    ゲッツィ&ブリアン

    ゲッツィ&ブリアン

    Tm (オートバイメーカー)

    ディブラッシ

    テラ・モデナ

    パトン

    パリラ

    ファンティック (オートバイメーカー)

    CR&S

    ヴァイルス

    VOR

    SWM (オートバイ)

    NCR (オートバイメーカー)
     


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    イタリア3

    西暦 etc 企業名 概要
    3
    20

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    フォード・アメリカ

    西暦 etc 企業名 概要

    フォードフォード・モーター

     
    リンカーン



    エドセル



    マーキュリー


     


    シェルビー・アメリカン

     シェルビー・スーパーカーズ






     

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    ゼネラルモーターズ・アメリカ

    西暦 etc 企業名 概要


    ゼネラルモーターズ





    ビュイック



    キャデラック


     GMC



     シボレー


     

    エルモア
    エルモア・マニュファクチャリング・カンパニー



    オールズモビル



     ポンティアック





    サターン


     ジェフリー



     ジオ



     ハマー


     

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    クライスラー・アメリカ

    西暦 etc 企業名 概要

    クライスラー


     ラム・トラックス



     ダッジ



    インペリアル



     デソート


     プリムス


     ランブラー





     

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    アメリカン・モーターズ

    西暦 etc 企業名 概要
     アメリカン・モーターズ
    アメリカン・モーターズ・コーポレーション(American Motors Corporation 、略称AMC)は1954年から1987年に活動した米国の自動車メーカー。

    コンパクトカーに力を入れるなど、
    ビッグスリーとは一線を画したモデルを発売していたが、
    買収によりクライスラー社に吸収された。


     Nash Motors Corporation
    ナッシュ・モーターズ


     Nash-Kelvinator Corporation
    ナッシュ=ケルビネーター


     Hudson Motor Car Company
    ハドソン・モーター・カー・カンパニー




     Kaiser-Frazer Corporation
    カイザー=フレーザー

    カイザー・モーターズ

    カイザー=ジープ・コーポレーション

    カイザー=ウィリス

     Rambler
    ランブラー


     イーグル
    イーグル(Eagle )は、
    1988年から1999年までアメリカの自動車製造大手のクライスラー(現:フィアット・クライスラー・オートモービルズ、以下クライスラー社)が
    北米で展開した自動車ブランド。

    「イーグル」は1980年から1987年までAMCが販売した「AMC・イーグル」に由来する。

    クライスラー社内ではジープ/イーグル部門として活動し、販売は以前はAMCディーラーであった販売店を通してジープと共に販売された。


     

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    AMゼネラル

    西暦 etc 企業名 概要
     AMゼネラル
    AMゼネラル(AM General)は、
    アメリカ合衆国の自動車メーカーである。

    インディアナ州サウスベンドに本拠を置いている。
    現在は大型車両や軍事用車両の製造を主に手がけており、
    ハマー、ハンヴィーの製造元として広く知られている。

    かつて1982年まではアメリカン・モーターズの商用車・軍事車両部門であった。

    現在はマックアンドリュー&フォーブスホールディング、レンコ・グループの子会社である。

     HMMWV
    ハンヴィー
    HMMWV: High Mobility Multipurpose Wheeled Vehicle=高機動多用途装輪車両, Humvee

     HUMMER
    ハマー

     

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    アメリカの自動車産業

    西暦 etc 企業名 概要
     パノス


     


    スチュードベーカー
    スチュードベーカー(英語:Studebaker)はアメリカ合衆国の車両メーカー(1852年創業、1967年終了)。馬車では全米一位のメーカーであり、1897年から1966年まで自動車も生産した。現在は大手自動車部品メーカー・フェデラルモーグル(Federal-Mogul)の一部門である。インディアナ州サウスベンドに1964年まで本社を置いた。

    1928年には ピアスアロー、1954年には パッカードと、2つの名門高級車メーカーと合併した。著名な工業デザイナー・ レイモンド・ローウィのデザインした乗用車を長年にわたって製造した。しかしビッグスリーとの競争に勝てず、1966年モデルを最後に自社製自動車製造から撤退した。企業としてはしばらく存続したが、1979年、合併により社名も消滅した。


     ピアース・アロー
    ピアース・アロー(英語: Pierce-Arrow)は、1901年から1938年までニューヨーク州バッファローを本拠に活動していたアメリカの自動車メーカーである。特に高価な高級車で知られるが、商用トラック、消防車、ボート、キャンプトレーラー、モーターサイクル、自転車なども製造していた。




    パッカード
    20世紀初頭に創業、高精度・高品質を備える優れた高級車を生産し、「その価値は持ち主に訊け」("Ask the Man Who Owns One.")というキャッチコピーと共に名声を得た。第二次世界大戦以前は同じくアメリカのキャデラック、ヨーロッパのロールス・ロイスやデイムラー、イスパノ・スイザ、メルセデス・ベンツなどと並び、世界を代表する名門高級車メーカーであった。

    だが1930年代の不況期、中産階級向けの自動車にも進出し、却ってブランドイメージの低下を招き、更に1950年代には品質低下などの凋落を重ね、結果としてブランド・企業とも消滅の運命を辿った。

     


    タッカー
    タッカー・トーピード



    サリーン




    Jackson Automobile Co.ジャクソン・オートモービル・カンパニー
     チゼータ


     デューセンバーグ




     デロリアン・モーター・カンパニー



     ナショナル・モーター・ビークル



     パウエル自動車



     DeLorean Motor Company
    デロリアン・モーター・カンパニー



     ピアース・アロー



     Brush Motor Company
    ブラッシュ・モーター・カー・カンパニー


     Playboy Motor Car Corporation
    プレイボーイ・モーター・カー



     ベクター
    ベクター・モーターズ

     リッケンバッカー





     
    ルーテンバー・モーター・カンパニー



     モスラー・オートモティブ



     レオ・モーター・カー・カンパニー



     ローカル・モーターズ




    オールステートオールステート



    クッシュマン


     Allison Replicar
    アリソン・レプリカー

    Allison Replicars


    アリソンレプリカー株式会社 Inc.はアメリカの自動車メーカーでした。

    ケネスC.アリソンは、1979年9月18日に
    フロリダ州ポートオレンジで会社を設立しました。

    1980年に自動車生産が開始されました。

    他の資料では、1973年、つまり会社が設立される前に生産を開始したとしています。
    ブランド名はAllisonでした。

    生産は1983年に終了しました

    唯一のモデルはMGのTDのレプリカでした。
    VWビートルのシャーシが基礎を形成しました
    排気量1700cm³の4気筒エンジンが車両を駆動しました。

     

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    アメリカのトラック

    西暦 etc 企業名 概要



    ダイムラー・トラックス・ノース・アメリカ

     

    ウェスタン・スター・トラックスウェスタン・スター・トラックス

    ダイムラー・トラックス・ノース・アメリカの傘下


     フレイトライナー
    ダイムラー・トラックス・ノース・アメリカの傘下



     

    ケンワース
    パッカー傘下


    ピータービルト
    パッカー傘下


     
     マック・トラックス

    ボルボトラックス


     
     パッカー
    パッカー(英: Paccar, Inc.、NASDAQ: PCAR)は、
    アメリカ合衆国ワシントン州ベルビューに本社を置く
    大型トラックメーカーで、
    各地の子会社では小型・中型トラックの製造も手掛けている。

    1905年にウィリアム・ピガット(William Pigott)がシアトル・カー・マニュファクチュアリング(英: Seattle Car Manufacturing)を創業、当初は鉄道の製造や伐採も生業としていた。

    後にオレゴン州ポートランドのトゥーヒー・ブラザース(英: Twohy Brothers)と合併して、
    パシフィック・カー・ファウンダリー(英: Pacific Car and Foundry)となった。

    第二次世界大戦時には、アメリカ陸軍向けのM4中戦車をはじめとする各種軍需品を製造していた。

    1945年ケンワースを買収してトラック市場に乗り出し、次いで1958年にはピータービルト
    ダート・トラック・カンパニー(英: Dart Truck Company)を買収した。

    1972年現社名に社名変更、
    1981年にイギリスのトラック・バスメーカーである
    フォーデン・トラックを買収、
    1996年には財政難に陥っていたオランダの
    DAFトラックを買収した。

    更に6~44t級のトラックの製造能力を得るため、
    1998年にイギリスのレイランド・トラックを買収している。

    ・ケンワース(米)
    ・ピータービルト(米)
    ・ダート・トラック・カンパニー(英)
    ・フォーデン・トラック(英)
    ・レイランド・トラック(英)
    DAF((オランダ)

     
     ナビスター・インターナショナル
    ナビスター・インターナショナル コーポレーション(英: Navistar International Corporation)は、
    インターナショナル・ハーベスターの事業を
    1986年に承継したアメリカ合衆国の持株会社。

    トラックとディーゼルエンジンの製造開発に関する
    国際的ブランドとして認知されている。

    また、同社は子会社であるナビスター・ディフェンス(Navistar Defence)を通じ
    軍用車両の製造を行い、子会社のIC バスを通じて
    スクールバスの製造も行っている。

    現在、トレイトン(Traton SE 旧:フォルクスワーゲン・トラック & バス)が最大の利害関係者となり、
    ナビスター・インターナショナル株の16.8%をトレイトンが所有している。

     

    オシュコシュ・コーポレーションオシュコシュ・コーポレーション

    オシュコシュ・コーポレーション(Oshkosh Corporation、オシュコシュ社)は、アメリカ合衆国の自動車関連企業、軍事・防衛関連企業である。以前はオシュコシュ・トラック(Oshkosh Truck)として活動していた。ウィスコンシン州オシュコシュ市に本社を置き、世界中で計約12,000人の従業員が就業している。

     
     2020年時点、北米でのトラックシェアは

    1:フレイトライナー
    (ウェスタン・スター・トラックス)
    2:パッカー
    (ケンワース、ピータービルト)
    3:ボルボ・グループ
    (ボルボ・トラックス、マック・トラックス)
    4:ナビスター・インターナショナル コーポレーション

     


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    オートバイ・アメリカ

    西暦 etc 企業名 概要
     Harley-Davidson, Inc.
    ハーレー・ダビッドソン


     
    ビューエル

     
     Polaris Industries
    ポラリス・インダストリーズ

    ポラリス・インダストリーズ(Polaris Industries)はスノーモービル、サイド・バイ・サイド・ビークル、全地形対応車、三輪自動車、ネイバーフッド・エレクトリック・ビークルを製造するアメリカ合衆国のメーカーである。傘下企業にオートバイのビクトリーおよびインディアンを持つ。

    1954年にエドガー・ヘイティーンらによって創立。1956年には生産ラインをミネソタに移した。1960年にはエドガー率いる3人のスノーモービル乗りがベセルからアラスカの荒野を120マイルかけて走破した。1992年には水上オートバイの製造を開始し、2004年に製造中止となる。1995年には富士重工業との合弁でATVやスノーモービルのエンジンを製造するロビンを設立。2005年にはKTMの株式の24%を買い付け提携することを発表したが、2006年にKTM・ポラリスともに早期終了することを発表している。2010年に工場をオセロラからメキシコに移した。2011年にはインディアンを子会社化する。

    2019年から、彼らはフリートのニーズに合わせて会社を支援する体験会社PolarisAdventuresを設立しました

    ビクトリー

    インディアン


    ・ATV
    オートバイの車体で4輪車。

    ・サイド・バイ・サイド・ビークル
    小型のバギーの様な4輪車。
    2人乗り

    ・スノーモービル

    ・三輪自動車
    前輪が2つに後輪が1つのスリーホイール。
    2人乗り

     ビクトリー
    ビクトリーモーターサイクルズまたはヴィクトリーモーターサイクルズ(Victory motorcycles)は、アメリカ合衆国ミネソタ州メディナに本社を置く、全米2位のオートバイ・ブランド。ヴィクトリーはパワースポーツ業界ではアメリカNo.1のシェアを持つメーカーポラリス・インダストリーズのモーターサイクル部門である。ハーレーダビッドソンのようなアメリカンスタイルだが、革新的なモダン・アメリカンを目指して開発&設計がされている。1998年7月4日にVictoryの第1号車両がラインオフし、2013年で生誕15周年を迎えた。


     インディアン
    1901年5月 - マサチューセッツ州スプリングフィールドに、バイクレーサーのジョージ・マロリー・ヘンディー(George Mallory Hendee)とエンジニアのカール・オスカー・ヘッドストローム(Carl Oscar Hedström)によってヘンディー・マニュファクチュアリング・カンパニー(Hendee Manufacturing Company)として設立され、第一号車である原動機付き自転車を3台製作した。

    1959年 - 会社解散。その後は投資家による再興と倒産を繰り返している。

    1993年 - 日本での商標「Indian」のライセンス管理会社として、「株式会社インディアンモトサイクルカンパニージャパン」が設立される。

    1996年-第二次インディアン・モーターサイクル社設立される。

    2006年 - 米国に新生インディアン・モーターサイクル社が設立される。

    2011年 - ポラリス・インダストリーズが米国インディアン・モーターサイクル社の経営権を取得。


    2019年10月1日 - ポラリス・インダストリーズが日本法人「ポラリスジャパン株式会社」を横浜市の横浜ランドマークタワーに設立。同日付けで、インディアン・モーターサイクルを含むポラリス製品の日本における全ビジネスを統括する。2010年から日本総輸入代理店であったホワイトハウスは正規ディーラーとして販売を継続する。

     
     Boss Hoss Motorcycles
    ボスホスモーターサイクル


     
    CAT MINI BIKE


     
    エレクトリック・モータースポート

     
    カノン


     
    クリーブランドサイクルワークス

     
    サクソン

     
    ゼロ・モーターサイクルズ

     
    ベクトリックス


     
    ローコン

     
     

    トートゴテ


     
    パウエル自動車


    Powell Challenge trail bikes

     

    アメリカン・マシン・アンド・ファウンドリー


     


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    電気自動車・アメリカ

    西暦 etc 企業名 概要
     テスラ




     
     リヴィアン


     ルシード・モータース


     

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    チェコ

    西暦 etc 企業名 概要

    シュコダ・オート
    シュコダ・オート(捷: Škoda Auto)は、チェコの自動車メーカーである。本社は中央ボヘミア州のムラダー・ボレスラフ。現在はドイツのフォルクスワーゲングループ傘下で、チェコ国内自動車生産のシェア1位を占める。スローガンは「SIMPLY CLEVER」。


    タトラ
    タトラ(Tatra)は、チェコの自動車・ディーゼルエンジン等のメーカー(Tatra a.s.)およびそのブランド名のひとつである。

    T700は少数が製造されたのみで1998年に製造中止され、これをもってタトラの乗用車の歴史は終わった。

    タトラは現在でも各種のトラックを生産しており、その中には全輪駆動モデルも多数含まれる。

     
     ヤワ
     CZ
     
     アヴィア・モータース
     

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    オーストリア

    西暦 etc 企業名 概要
     KTM



     
     ジェネリック
     
     シュタイア・ダイムラー・プフ
     
     ロータックス
    BRPロータックス有限合資会社(BRP-Rotax GmbH & Co. KG )はオーストリアのエンジンメーカーである。

    一般的には単にロータックスと呼ばれる。
    ボンバルディア・レクリエーショナルプロダクツ(BRP)の製品
    (スノーモービル、雪上車、パーソナルウォータクラフト、ATVなど)
    のエンジンを製造していることで知られており、
    また4ストローク、2ストロークを問わず様々なオートバイ、カート、
    軽飛行機用のエンジンを生産している。
    過去50年間に350以上のモデルのエンジンを、
    600万台以上生産している。

     

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    オランダ

    西暦 etc 企業名 概要
     DAFオランダ

    DAF Trucks N.V. (ダフ・トラックス)は
    オランダのアイントホーフェン本拠地を置く
    ヨーロッパの著名な商用車メーカーである。

    数回の社名変更と会社再編を経て、
    現在はトラックのみを生産するダフ・トラックス
    となっている。

    主要工場はオランダに構え、
    キャビンと車軸はベルギーのウェスターロで
    製造が行われている。

    いくつかのモデルはイギリスの貨物自動車メーカー
    であるレイランド・トラックで開発された
    車両であり、レイランドDAFブランドとしての
    販売が行われた。

    DAFトラックは1996年にアメリカのパッカーに買収され、
    パッカー・グループの一員として現在に至っている。

     
     

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    スウェーデン

    西暦 etc 企業名 概要

    ボルボ・グループ
    ・ボルボ・トラックス
    ・ルノー・トラックス
    ・マック・トラックス
    ・東風汽車集団
    ・アイシャー・モーターズ
    ・ボルボ・バス
    ・ボルボ建設機械
    ・ボルボ・ペンタ
    ・ボルボ・フィナンシャル・サービス

    などを所有する。


    Volvo Trucks
    ボルボ・トラックス

    ボルボ・トラックス
    (英: Volvo Trucks 瑞:Volvo Lastvagnar)は、
    ボルボ・グループ(AB ボルボ)が所有するスウェーデンのヨーテボリに拠点を置くグローバル・トラックメーカー。

    2016年時点で世界で2番目となる大型トラックの製造業者である。
    なお、世界第一位はダイムラー。


    OmniNova Technology AB
    オムニノーバ・テクノロジー


     

    Scania AB
    スカニア
    (フォルクスワーゲン・グループ)

    フォルクスワーゲングループの一員で、現在は同グループの商用車部門を担うトレイトンの子会社。

     

    Husqvarna
    ハスクバーナ

    ハスクバーナ(スウェーデン語: Husqvarna AB)は、
    チェーンソー、芝刈り機などの農林・造園機器や、建設機械のメーカーである。

    スウェーデン・ストックホルムに本社を置き、
    世界60カ国以上で製品を販売している。
    また、すでに売却したオートバイ部門のブランド名、
    傘下の別会社に移管された
    ミシンのブランド名でもある。

    日本では、100%子会社のハスクバーナ・ゼノアが、
    農林・造園機器および建設機械を販売している。
    ナスダック・ストックホルム上場企業。

     Husqvarna Motorcycles GmbH
    ハスクバーナ・モーターサイクルズ

    ハスクバーナ・モーターサイクルズ
    (Husqvarna Motorcycles GmbH)は、
    ピエラ・インダストリーAGが保有している
    モトクロス、エンデューロ、
    スーパーモタードなどのオートバイを製造する
    企業である。

    1903年にスウェーデンのハスクバーナのオートバイ部門として創業した。


    BMWグループは2013年1月31日、KTMグループの親会社ピエラ・インダストリーAGにハスクバーナ・モーターサイクルズを売却したことを発表する。

    同年10月にはKTM傘下となっていたフサベルが
    ハスクバーナを買収したが、
    フサベルは1987年のハスクバーナ売却時に
    一部関係者が独立して創業した経緯があったため
    事実上の再統合となった。

    以降はフサベル側がハスクバーナのブランドを継承し、KTM傘下として現在に至る。

     フサベル
    フサベル

    フサベル(Husaberg)は、かつて存在したスウェーデンのオートバイのブランドである。2013年にハスクバーナ買収後にハスクバーナに社名変更した。


     

    Koenigsegg Automotibe AB
    ケーニグセグ

    ケーニグセグ・オートモーティブ(Koenigsegg Automotibe AB )は、1994年にスウェーデン南部、
    エンゲルホルムに設立されたスーパーカー・ハイパーカーメーカーである。

     


    ボルボ・カーズ

    ボルボ・カー・コーポレーション
    (Volvo Car Corporation)、
    通称ボルボ・カーズ(Volvo Cars)は、
    スウェーデン・イエーテボリに本拠を置く乗用車メーカーである。

    ボルボ・カーズの前身は、ボルボ・グループ(いわゆるトラック部門や船舶エンジン部門で構成されるコングロマリット)の乗用車部門である。

    株式の8割を中国・浙江吉利控股集団が保有している。


    SAAB
    サーブ・オートモービル


    NEVS

    National Electric Vehicle Sweden AB
    ナショナル・エレクトリック・ビークル・スウェーデン

    ナショナル・エレクトリック・ビークル・スウェーデン(NEVS)は香港の環境エネルギー開発会社
    「ナショナル・モダンエナジー・ホールディングス」と日本の投資会社
    「サン・インベストメント」が
    それぞれ51%・49%出資した企業で、
    経営破綻したサーブ・オートモービルの資産を
    2012年6月13日に買収した。

    この買収には部品子会社やサーブ・9-5モデルの所有権は含まれない。
    2014年8月20日、トロルヘッタン工場において、
    サーブ『9-3 EV』のプロトタイプを初公開した。

    当初はガソリンエンジンのサーブ・9-3を再生産していたものの、生産は軌道には乗らずに2014年8月にスウェーデンの裁判所に破産法の適応を申請した。

    これにより、スウェーデンの裁判所は債権者の保護のために以後生産される車両にサーブのブランド名の使用を禁止する決定を下した。

    インドのマヒンドラ&マヒンドラが株の購入を
    打診したが物別れに終わった。

    2016年に天津に電気自動車製造の合弁会社が設立され、同年6月21日、
    2017年度よりブランド名を社名と同じNEVSに変更し、
    サーブを使用しないことを発表した。

    これはサーブのブランド名を保有する親会社の意向を反映したとされる

     

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    ロシアの自動車産業

    西暦 etc 企業名 概要

    GAZ
    GAZ(ガズ、ガス、ГАЗ)は、ロシアのニジニ・ノヴゴロドにある自動車メーカーである。

    ГАЗ(GAZ)は、もともとГорьковский автомобильный завод(Gorkovsky Avtomobilny Zavod)の略で、
    ゴーリキー自動車工場」という意味である。

    1929年に、フォード・モーターとソビエト連邦の共同事業として
    NNAZ(ニジニ・ノヴゴロド自動車工場)という
    名前で創業した。

    1932年に市の名前がマクシム・ゴーリキーにちなんだ「ゴーリキー市」に変わったのに伴って、
    社名も現行のものに変更された。

    1935年-1956年の間は、ヴャチェスラフ・モロトフにちなんだ「モロトフ記念工場」という名称であった。

    現在は、株式会社「動車工場GAZ」や
    ウラル自動車工場(UralAZ)などを抱える
    大規模企業グループとなっている。


    ウラル自動車工場
    ウラル自動車工場(ロシア語: Ура́льский автомоби́льный заво́д)はロシアのチェリャビンスク州のミアスに本社を置く大手の大型トラックメーカーである。

    設立は1941年で、第二次世界大戦の最中に工場をモスクワから現在地に移転した。同工場は以前ジルグループに属していたが現在はGAZグループになっている。

     

    UAZ
    UAZ(ワズ、あるいはウァズ;ロシア語: УАЗ;Ульяновский Автомобильный Завод;Ul'yanovskiy Avtomobil'nyy Zavod)は、
    ロシアのウリヤノフスクに本拠を置く自動車メーカー。
    社名は「ウリヤノフスク自動車工場」の略。

    UAZは、第二次世界大戦勃発後のドイツ国防軍のソ連への侵攻(バルバロッサ作戦)を受け、軍用車両の生産拠点の疎開(前線からの退避)を目的として1941年にウリヤノフスクに設立された。

    設立当初は"第2スターリン記念工場"(ZiS、旧名モスクワ自動車工場)の子会社のような位置付けで、最初に生産したのはZiSがアメリカ製の"オートカー モデルCAトラック"をコピーして開発した"ZIS-5"軍用3トントラックであった。1944年頃からZIS-5の主要生産拠点はウラル自動車工場に移され、戦後の1947年になると、UAZはゴーリキー自動車工場 (GAZ)製の"GAZ-AA"軍用1.5トントラックの製造を始めた。1948年には、GAZ製のGAZ-M20 ポピェーダと同系列のエンジンを使用したボンネットトラック型の"UAZ-300"を開発し、これはUAZの名を冠する初の車種となったが、UAZ-300は量産には至らなかった。

    また、2006年よりいすゞ自動車のトラック、エルフをノックダウン生産することが決定している。

    自国製ディーゼルエンジンは環境性能が確保できないことから、提携先であるいすゞ製およびVW製、またはそのノックダウン生産に頼っている。

    伝統的なモデルはクランク棒による手動(人力)エンジン始動も可能になっている。これは、酷寒なロシアではバッテリーが充電状態に関わらず化学反応を起こさなくなって放電できなくなり、始動できなくなるためである。ただ、伝統的なモデルでも2010年モデルからは欧州統一環境規格「ユーロ3」に対応するためのインジェクション化・電子制御化され、人力始動は不可能になった。現在、旧西側諸国への輸出はインジェクション車のみとなっている。

    2005年2月、東京都新宿区の岩本モータース有限会社が同年7月以降『UAZ』輸入の第一陣8台が横浜港に陸揚げされ、日本特別仕様車UAZ-3909が新車で販売されていた。 2018年より 東京都渋谷区千駄ヶ谷の チーム ルパルナスが ロシア ワズ本社と契約 UAZ-2206 UAZ-39094 UAZ-3303 及び ハンターの直輸入販売を再開した。その日本仕様には、シャフトのバランス取り、インシュレーター取付、各部オイル交換、現地で50km走行し各部調整など、ウィークポイントを事前に強化する「転ばぬ先の杖パッケージ」が用意されている。

    日本に新車で輸入されていたのは、バンタイプのUAZ-3909で、日本向け特別仕様車となっている。2010年モデルを更にバージョンアップし、DOHCエンジンに+インジェクションにグレードアップ、エンジンはUAZ社製4気筒DOHCガソリン仕様、2,700ccで最大出力112馬力となっている。一方で、外観デザインは伝統的モデルであるUAZ-452からほとんど変わっておらず、クラシカルなものとなっている。

     

    アフトヴァース
    アフトヴァース( ロシア語: АвтоВАЗ, 英語: AvtoVAZ)は、ロシア連邦最大の自動車メーカー。

    サマラ州トリヤッチ市に本社を置く。
    日本語ではアフトワズ、アフトバスとも表記される。

    現在はラーダブランドで製造および国内外での販売を行っているが、元々は海外向けのブランドであり、
    旧ソビエト連邦内ではVAZ(ヴァズ)
    Zhiguli(ジグリ)のブランドが使用されていた。

    2014年6月にルノー・日産が経営権を取得しており、 ルノーおよび日産、ダットサンブランド車の製造も行われる。

    2017年にはロシア国内で約31万台を販売。
    ドイツやハンガリー、中国、ヨルダン、
    キューバなど約30カ国に2万4000台を輸出した。


    ラーダ

    普通自動車の
    ブランド

    セダンやハッチバック

    ラーダ(英語: Lada, ロシア語: ЛАДА)は、
    ロシアの自動車メーカーであるアフトヴァースが製造・販売を行っている自動車ブランドである。

    元々は海外向けのブランドで、
    旧ソビエト連邦では「ジグリ」 (Zhiguli) 名で
    販売されていたが、現在は内外問わず
    「ラーダ」ブランドで販売されている。

    ラーダという呼称はヴァイキングが用いた帆船
    由来し、同車のエンブレムも図案化された
    帆船をモチーフとしている。



    ラーダ・ニーヴァ

    クロスカントリー車や
    オフロード車
    のブランド

    ラーダ・ニーヴァ (英語: Lada Niva, ロシア語: Лада Нива、VAZ-2121)は、アフトヴァースがラーダブランドで製造・販売している自動車である。

    本稿ではアフトヴァースとゼネラルモーターズ (GM) の合弁会社、GM-アフトヴァースが製造しているシボレー・ニーヴァについても説明する。

    2010年より渋谷区千駄ヶ谷の株式会社ルパルナスが、規制の厳しいEU諸国向けドイツ仕様のニーヴァを日本に輸入していたが 、2019年モデルより ロシアからダイレクトに 3ドア(諸費用オールイン乗り出し価格280万円~) 及び 5ドア(諸費用オールイン乗り出し価格310万円~)を EUスペック同等レベルに仕上げ直輸入する事となった。今日までソ連・ロシア製乗用車としてマーケットに受け入れられた唯一の例となっている。


    2001年に設立されたアフトヴァースとGMの合弁会社、GM-アフトヴァースは、2002年9月23日からシボレー・ニーヴァ (Chevrolet Niva) の製造を行っている。

    以前はVAZ-2123として知られていたこの車種は、旧来のVAZ-2121をベースにしながらも全く新しいボディや内装が与えられた。過酷なツンドラの風土を想定した設計がなされており、数多の現代的で手頃なSUVと比較して模範的なオフロード能力を備えている。


    2009年にはベルトーネスタジオの手によるフェイスリフトが行われた。

    2013年8月2日、通算50万台目のシボレー・ニーヴァがラインオフした。

    2020年8月、シボレー・ニーヴァとしての生産を終了。
    ラーダ・ニーヴァトラベルとして販売がスタート。

     

    ソラーズ
    ソラーズ
    (ロシア語: Соллерс ソリェルス、英語: Sollers ソラーズ)
    は日本でソレルスとも呼ばれ、
    ロシアにある自動車の製造・販売・リース会社で、
    乗用車・商用車・バン・トラックなど広く
    扱っていて、
    2008年まで鉄鋼会社「セヴェルスターリ」
    関連の「セヴェルスターリ自動車」として知られていた。

    自動車製造は関連会社で、
    ロシアのUAZ乗用車およびKAMAZトラック、
    韓国のサンヨン SsangYongの乗用車、
    イタリアのフィアットの乗用車、日
    本のいすゞ自動車の商用バン、
    ガソリンおよびディーゼル・エンジン(ZMZ)を
    カバーしている。

     

    アフトフラモス
    アフトフラモス(英語: Avtoframos、ロシア語: Автофрамос)はロシアの自動車製造会社。

    フランスのルノーとモスクワ市政府が設立した合弁企業であり、モスクワに本社を置く。

    社名のアフトは自動車、フラモスはフランスと
    モスクワを意味する。
    2009年時点で、ルノーが94.1%の株式を、
    モスクワ銀行 (Bank of Moscow) が残りの5.9%をそれぞれ保有している



    イジェフスク機械製作工場

    イジェフスク機械製作工場(イジェフスクきかいせいさくこうじょう、ロシア語: Ижевский машиностроительный завод, ロシア語ラテン翻字: Izhevskiy mashinostroitel'nyy zavod)は、ロシアの兵器メーカーである。

     

    マルシャ・モーターズ
    マルシャ・モーターズ
    (ロシア語: «Маруся Моторс»、英語: Marussia Moters、マルシア・モーターズとも)
    は、ロシアのスポーツカーメーカー。

    2007年に元レーサーでTVタレントのニコライ・フォメンコが、起業家アンドレイ・チェグラコフ、エフィム・オストロフスキーらと共に設立。「マルシャ」ブランドでのスポーツカーの製造・販売などを手掛け、2008年12月にソ連・ロシアを通じて初のスーパーカーとなるマルシャ・B1を、2009年にマルシャ・B2を発表した。2010年5月にはモスクワでSUVのマルシャ・F2を発表した。

    2014年4月、自動車事業の廃止を表明。後述するF1チームの所有権も別会社に移すこととなった。

     

    IMZ・ウラル
    IMZ-ウラル(英: IMZ-URAL, 露: ИМЗ-УРАЛ)は、
    ロシアのIMZ社(英:Irbit Motorcycle Plant 露:Ирбитский мотоциклетный завод[Irbitskiy Mototsikletniy Zavod])
    が製造しているオートバイおよび
    サイドカーのブランドである。

     

    KAMAZ
    株式公開会社「KAMAZ」(カマーズ、カマズ;ロシア語:ПАО «КАМАЗ»カマーズ)は、ロシア連邦の企業である。

    ソ連時代に公営の自動車工場として開設された。

    企業名は、以前の名称「カマ自動車工場」(«Камский автомобильный завод»)の略号に由来する。

    当時はKamAZ(КамАЗ)と表記した。
    本社工場は、タタルスタン共和国を流れるカマ川の河畔の町ナーベレジヌイェ・チェルヌイにある。

    独立国家共同体最大のトラック製造会社であり、
    車両を東欧、中国、中東、北アフリカへ流通させている。

    ダカールラリーでも7回の優勝を収めている。
    製造台数:93,600 台/年(260 台/日)

     

    ジル
    ジル(ZILまたはZiL, ロシア語: Завод имени Лихачёва (ЗиЛ), ラテン文字転写:Zavod imeni Likhacheva, リハチョフ記念工場の意)は、高級乗用車・トラック・重機を製造していたロシアの大手メーカー。2012年を最後にすべての車両生産が終了した。

    一時期はバスや装甲戦闘車両、アエロサン、
    そしてソビエト連邦の指導者向けの装甲車も製造していた。

    また、主にロシア政府向けのリムジンや高級車も手作業で製造していた。

    ジルの乗用車はマイバッハやロールス・ロイスの自動車と同等の価格であるが、
    CIS外での知名度は低く、年に十数台しか製造されなかった。

     

    ブリャンスク自動車工場
    ブリャンスク自動車工場
    (略称:БАЗ バス ロシア語:Брянский автомобильный завод ラテン文字転写:Bryansky Avtomobilny Zavod 英:Bryansk Automobile Plant 略称:BAZ バズ、バァズ)
    はロシア、ブリャンスク州ブリャンスクに本拠を
    置く軍用車両と貨物自動車の開発と製造を行う企業。

    1958年、ジルの子会社として設立された。
    ロシアを代表する軍需産業メーカーの一社である。

    14トンから40トンの積載能力を持つ民間向け
    不整地用トラクターとシャーシの製造も行う。

    2015年、防衛産業の国有企業であるアルマズ・アンティ(Almaz-Antey)のグループ企業となる。

     

    モスクビッチ
    モスクヴィッチ(Moskvitch)
    (ロシア語: Москвич)は1947年から2002年に破産するまで存続した旧ソ連・ロシアの自動車メーカーである。

    同国の代表的な小型ファミリーカーとして知られた。
    「モスクヴィッチ」とは「モスクワっ子」という意味である。

     

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    ベラルーシの自動車産業

    西暦 etc 企業名 概要

    ベラーズ
    ベラーズ
    (略称;英語:BelAZ ベラルーシ語:БелАЗ, ベラス、ベラース 正式名称:Беларускі аўтамабільны завод ベラルーシ自動車工場)
    は、ベラルーシ、ミンスク州ジョジナに本拠を
    構える露天掘りや鉱山、採石場などで使用される
    マイニング・ダンプ(ホウルトラック)や
    建設機械、貨車の製造開発を行う企業。
    なお、略称であるBelAZはベルアズとも呼ばれる

    ベラーズは独立国家共同体における最大となる投資プロジェクトのひとつであった。
    工場は設備のアップデートで予定された3つのフェーズのうち2つを完了している。
    研究開発、製造、組み立て、アフターサービスに適用される品質管理システムは国際規格であるISO 9000に沿って行われている。


    ミンスク自動車工場
    ミンスク自動車工場
    (ベラルーシ語:Адкрытaе Акцыянэрнaе Таварыства «Мінскі аўтамабільны завод» MAЗ / MAZ ロシア語:Минский автомобильный завод ラテン文字転写:Open JSC Minski Autamabilny Zavod 英語:Minsk Automobile Plant)
    は、ベラルーシ、ミンスクに本拠を置く
    ベラルーシ最大の国営企業。
    東欧でも最大となるトラックメーカーの一社となる。

    貨物自動車、バス、トロリーバス、特殊車両および
    軍用車両の開発と製造を行っており、
    独立国家共同体や海外では
    「MAZ マズ、マァズ」ブランドとして著名であり、

    世界45ヶ国に対し販売実績を残している。
    また、ミンスク自動車工場は法人格の権利を持つ
    独立した企業体となり、
    ベラルーシ政府が主導する生産組合である
    ベラートマズ・ホールディングス(кампаніяй холдынга «БЕЛАЎТАМАЗ» / BelavtoMAZ)
    の親会社となる。

    2014年12月27日、ベラルーシ政府は工業大臣
    であるディミトリ・ステヴァノヴィッチ・エカテリッチ(Дзмітрый Сцяпанавіч Кацярыніч / Dmitry Stepanovich Ekaterinich)
    をミンスク自動車工場の局長に任命している。


    ミンスク・ホイール・トラクター工場
    ミンスク・ホイール・トラクター工場
    (ベラルーシ語:Мінскі завод колавых цягачоў, МЗКЦ ロシア語:Минский завод колёсных тягачей, МЗКТ 英語:Minsk Wheel Tractor Plant, MWTP, MZKT)
    は、
    ベラルーシ、ミンスクに拠点を置く
    貨物自動車と特殊車両および軍用車両の製造を行う国有企業。

    1991年までミンスク自動車工場の一部門であった。

    MZKTで製造された車両は「ボラット(VOLAT)
    ベラルーシ語:волат(巨人)」ブランドとして
    販売が行われている。




     

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    ウクライナの自動車産業

    西暦 etc 企業名 概要

    ウクライナの自動車産業

    英Wikipedia

    EUとの合意以前は、ウクライナの自動車メーカーは年間10万から20万台の自動車を製造していました。

    この業界の主要な国内プレーヤーは、UkrAvto(ZAZ)、Bogdan、Eurocar、Electron Corporation、 Etalon -Avto、KrAZ、LAZでした。

    トラック、バス、トロリーバスの生産では、
    地元で開発されたデザインが引き続き普及していますが、
    ZAZTavriaなどの国内でデザインされた車の生産は
    減少しています。

    現在、ウクライナでのほとんどの自動車生産には、
    ヨーロッパ、韓国、中国のブランド の組み立てが含まれています。


    UkrAvto(ZAZ)(ウクライナ自動車株式会社)

    Bogdan(ボフダーン)

    Eurocar(ユーロカー)

    Electron Corporation

    ・Etalon -Avto

    KrAZ(AvtoKrAZ:アウトクラーズ)

    LAZ(リヴィウ・バス工場)

    2018年4月、ウクライナの自動車メーカー協会Ukrautopromは、ウクライナの自動車産業は生産能力の2%しか機能していないが、自動車の生産量は2008年3月よりも98%近く少ないと述べました。

     
    ウクライナの自動車産業

    露Wikipedia

    過去には、ウクライナのSSRでの自動車の年間生産量は最大20万台(RSFSRに次ぐソ連で2位、
    条件付きでヨーロッパで12位)であり、
    ソビエト後のウクライナでは最大40万台でした。

    ロシアの自動車産業に次ぐソビエト後のスペースで2位(自動車を生産する国の中でヨーロッパで11位)
    でしたが、

    2015年から2016年までに、
    自動車の生産は年間数千台に急減しました。
    (CISで4位、ヨーロッパで21位)

    2019年現在、ウクライナには7つの自動車工場があります。

    2018年現在、ウクライナでの乗用車の本格生産は完全に停止しており、SKD組立のみを実施している。

    ウクライナで唯一の自動車メーカーは、シュコダ車のSKD組立を行うユーロカー企業(トランスカルパチア地方)です

    ウクライナでのバスの生産は、
    Cherkasy Bus

    Chernihiv Automobile Plant 

    Bogdan Automobile Plant(Lutsk)

    Chasovoyarsky RepairPlant

    Lviv Electron Plant

    ZaporozhyeAutomobilePlant

    によって行われています。

    トロリーバスの生産は、
    ルツクのチェルニヒフ自動車工場、
    リヴィウ電子工場、
    ボグダン工場で行われています。

    現在、業界には6つの最大規模
    Eurocar、ZAZ(破産)、
    KrAZ(破産)、
    LAZ(清算)、
    Bogdan -Cherkassy(破産)、

    Bogdan - LuAZ、
    およびその他のいくつかの自動車企業と、
    80を超えるコンポーネントサプライヤーが
    含まれています。

     


    ZAZ

    ザポロージエ自動車工場

    ウクライナ自動車株式会社

    ウクライナ自動車株式会社
    GoogleMap:ザポリージャ

    ZAZまたはZaporizhzhiaAutomobileBuilding Plant
    (ウクライナ語:ЗАЗ、Запорізькийавтомобілебудівнийзавод、
    Zaporiz'kyi avtomobilebudivnyizavod
    またはZaporiz'kyiavtomobilebudivnyiz _ _ また、
    バスやトラックも生産しており、
    以前の親会社の名前であるAvtoZAZで知られています。

    工場の設立日は1863年と考えられています。
    1908年に会社が設立され、
    後にメリトポリモータープラント(MeMZ)に
    なりました。

    1923年に、旧アブラムクープ工場は
    コミュナーに改名されました。

    1960年、メリトポリモータープラント
    ザポリージャ自動車プラントにエンジンを供給し始めました。

    1975年以来、MeMZは生産協会
    「AvtoZAZ」の一部になりました。


    今日、それはPJSC「ZAZ」の構造要素の1つです。

    1961年に工場は「ザポリージャ自動車工場」に
    改名されました。こ
    の工場は、「ザトウクジラザトウクジラ」として
    歴史に名を残したZAZ-965という1台の車の生産に
    従事していました。

    JV「AvtoZAZ-DEU」(2003年1月以降-CJSC「ZAZ」)は、
    1998年4月15日にJSC「Avtozaz」の生産拠点に
    設立されました。
    授権資本は、創設者の寄付を犠牲にして形成されました。

    OJSCAvtozazから-150ドル相当の資産。
    大宇自動車から-1億5000万ドル。
    ザポリージャの主要企業に加えて、
    合弁会社にはメリトポリモータープラント
    フラクチャリングプラントAvtoZAZ-モーター)、
    自動車ユニットの黒海プラント
    フラクチャリングプラントChZAA)、
    ポロギプラントイスクラ
    フラクチャリングプラントイスクラ)も含まれています。
    自立した企業。



    ZAZ・
    ザポロージェツ

    ザポロージェツ
    (ウクライナ語: Запорожець、ロシア語: Запорожец)は、
    ウクライナの自動車メーカーザポリージャ自動車工場(ZAZ)
    1960年から1994年まで生産していた後輪駆動のスーパーミニカーである。

    名前のZaporozhetsはウクライナのザポリージャ州または男性の名前が由来とされている。




    ZAZタブリア
    ZAZ Tavria(ウクライナ語:ЗАЗТаврія)は、ソビエト、そしてウクライナのメーカーZAZによって製造された一連の前輪駆動サブコンパクトカーです。

    ZAZ-1102Tavria [1]およびそれに続くZAZ-1102TavriaNova、ZAZ-1105 Dana、ZAZ-1103 Slavuta、およびZAZ-11055 Tavria Pick-Upは、製品ラインナップの中で 後輪駆動の Zaporozhetsシリーズに取って代わりました。

    すべてのZAZTavriaモデル(ピックアップを除く)の生産は2007年に停止しました。

     

    ボフダーン
    コルポラーツィヤ「ボフダーン」(ウクライナ語:Корпорація «Богдан»コルポラーツィヤ・ボフダーン)は、
    ウクライナの自動車メーカーを束ねる企業グループ(法人)のひとつである。

    本社は首都キエフにあり、資本金は5700万ドル(約67億円)、社長はオレーフ・スヴィナルチューク(Олег Свінарчук)である。

    ボフダーン社は、ウクライナにおける自動車輸送の拡大のための大規模な投資計画に基づいて2005年2月に創設された。

    グループには、ルーツィク自動車工場(ВАТ "Луцький автомобільний завод")、チェルカースィ・バス(ВАТ "Черкаський автобус")、現代自動車ウクライナ("Хюндай Моторс Україна")などに代表される20社が含まれている。



    ルーツィク自動車工場(LuAZ;ВАТ "Луцький автомобільний завод") - 軽乗用車・バスの製造

    チェルカースィ・バス(ВАТ "Черкаський автобус") - バスの製造


    ウクライナ自動車ホールディング(ТОВ "Український автомобільний холдиег) - 輸入部門(富士重工業(スバル)、現代自動車(ヒュンダイ)、起亜自動車(Kia)、AVTOVAZ(ラーダ)などの自動車を取り扱う)

    メガ自動車(メガ・モトールス;ТОВ "Мега-Моторс") - スバルの自動車を扱う

    アクヴァ・モトールス(ТОВ "Аква-Моторс") - 水上オートバイなどヤマハのマリン製品を扱う


    LuAZ

    ルーツィク自動車工場

    株式会社「ルーツィク自動車工場」
    (ウクライナ語:ВАТ "Луцький автомобільний завод"ルーツィクィイ・アウトモビーリヌィイザヴォード)は、
    ウクライナの自動車メーカーである。

    株式会社「LuAZ」(ВАТ "ЛуАЗ"ルアーズ)という略称も公式に使用されている。所在地はルーツィク

    ルーツィク自動車工場の歴史は、
    1949年に当時のウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の閣僚会議でルーツィクに自動車修理工場を設立することが決定されたことから始まった。

    1951年には工場の建造が始まり、
    1955年には国営・国有企業のルーツィク修理工場(Луцький ремонтний завод;ЛуМЗ)として
    稼動体制に入った。

    GAZやUAZなどソ連の他のメーカーの自動車の修理を請け負う傍ら、
    1960年には自社開発となるトレーラーを完成した。

    この時代の自社車輌には「LuMZ」(ルームズ)の社名が冠せられた。

    その後、1966年12月11日に社名はルーツィク自動車工場(Луцький автомобільний завод)に変更となり、
    積極的に自動車の生産を行うようになった。

    ザポロージエ自動車工場(ZAZ)との提携から
    代表的なウクライナ製軽自動車であった
    ザポロージェツィの生産も行ったが、
    この年にはザポロージェツィ・シリーズの
    ZAZ-969がルーツィク自動車工場専用の車輌とされ、
    LuZA-696として生産された。

    1971年には、ルーツィク自動車工場は航空機の修理工場となることが命ぜられた。
    しかし、そこでは軍事製品の製造が行われることが予期された。

    特にソ連空軍向けの新しい戦闘爆撃機Su-7B
    操縦装置を製作することがルーツィク自動車工場を
    含む各社に求められたが、
    いずれの企業も過度に責任の重い軍事関連の事業には
    関わり合いになりたくなかった。

    結局、装置はサラートフ州の企業で製造される
    ことになり、ルーツィク自動車工場は
    その重責を逃れた。

    1991年にウクライナが独立すると、ルーツィク自動車工場はウクライナの国営企業となった。
    社名は国営企業「ルーツィク自動車工場」
    (Державне підприємство "Луцький автомобільний завод")となった。

    1995年12月には、社名は国営企業「ルーツィク自動車工場」から有限責任会社「ルーツィク自動車工場」(Відкрите акціонерне товариство "Луцький автомобільний завод")に変更となった。

    2006年現在、ルーツィク自動車工場の株式は、
    72 %がイギリスのSVモータースが保有しており、
    残る28 %は個人株主によって保有されている。

    2005年にはボフダーン・コルポラーツィヤの傘下に入り、AVTOVAZ(ラーダ)起亜自動車(KIA)、
    現代自動車(ヒュンダイ)製の軽自動車のライセンス生産の準備に入った。

    また、年内にはマイクロバスのボフダーンやヒュンダイ製のトラックが出荷されるようになった。

    ルーツィク自動車工場では、今後は2006年6月30日に契約された中国の東風汽車との合同の出資計画に基づき、2007年末までにウクライナにおいて各種トラックの生産工場を稼動させることが決められている。

    この工場では自動車の各部品が製造されることになっている。新しい工場への投資は、35 USドルになった。また、チェルカースィにも新しい組立工場が設立される予定である。

     
     
    Eurocar
    (ユーロカー)

    the Eurocar Ukraine

    Uzhgorod近くのSolomonovoの国境工業団地にある
    Eurocar自動車組立工場は、ポストソビエト時代に
    ゼロから作成され、年間最大8万台の自動車を
    生産する能力があり、
    実際には最大1万台の異なる車とジープを生産しています。

    毎年、大型および中型の自動車キットŠkoda、Audi、SEAT(主にŠkodaRapid 、 Octavia 、 Fabia 、 Superb 、 Yeti )から組み立てます。

     
    Electron Corporation
    Electrontrans(eng。Electrontrans )は、
      2011年に設立されたトロリーバス、路面電車、電気バスの生産のためのウクライナとドイツの企業です。


     
    Etalon -Avto
    調べたけど、出てこない。

    Etalon -Avto : 標準 と 自動か自動車の意味
    スタンダード・オート
    普通自動車かな?

     

    AvtoKrAZ
    (KrAZ)
    アウトクラーズ

    ウクライナのトラックの唯一のメーカーは、AvtoKrAZ工場(ポルタヴァ地域)


    持株会社「AvtoKrAZ」
    (KhK AvtoKrAZ、アウトクラーズ、アフトクラーズ;ウクライナ語:ХК "АвтоКрАЗ"アウトクラーズ;ロシア語:)のひとつである。

    中部ウクライナの都市クレメンチュークに本拠を置き、
    大型車輌を主に自動車の開発・製造を行っている。
    また、AvtoKrAZは国際規格としてISO 9001:2000を取得している。

    旧称はクレメンチューク自動車工場(Кременчуцький автомобільний заводクレメンチューツィクィイ・アウトモビーリヌィイ・ザヴォード)で、
    その略称KrAZ(КрАЗクラーズ)に「自動車」を意味する「авто」を付けて新しい社名とした。

    なお、公式ホームページでは大文字と小文字の使い分けが判然としない部分がある。
    企業名は恐らく正式にはAVTOKRAZやAvtoKRAZではなくAvtoKrAZであるが、車両商標についてはKrAZとKRAZが混在している。

    このページでは、特に企業名と違える根拠もないため、企業名に合わせ商標についてもKrAZを用いることとする。




    LAZ

    リヴィウ・バス工場

    リヴィウ自動車工場
    (ウクライナ語:Львівськийавтомобільнийзавод ) 、
    主にその廃止された名前で知られているL' vivs'ky Avtobusnyi Zavod
    (ウクライナ語:viv 彼らのブランド名はLAZ(ЛАЗ)であり、
    会社とその製品はしばしばフルネームではなくこの頭字語で呼ばれます。

    ソビエト連邦の主要なバスメーカーの1つであり、リヴィウ市で史上最大の産業会社でした。
    工場は民間持ち株会社が所有しています。

     
     
    チェルカースィバス
    GoogleMap:チェルカッスイ


    チェルカッスイ自動車工場


     
     
    BAZ 
    GoogleMap:Prat "Boryspilʹsʹkyy Avtozavod"

    ボルィースピリ自動車工場





     
    CHAZ
    GoogleMap:Prat Chernihivsʹkyy Avtozavod

    チェルニゴフ自動車工場





     
    DAZ
    GoogleMap:ドニプロ

    Dniproバスプラント

    カメンスコエ(旧Dneprodzerzhinsk)のDneprovskyバス工場は、自動車修理工場に基づいてソビエト後の時代に作成され、LAZの懸念の一部であり、バスDAZ-3220「Dnipro」の小シリーズの生産を習得しました。 LAZ-695 N、CityLAZ-12 、およびフランスのミニバンルノーマスターに基づく救急車。

     

     
     
    CRZ
    GoogleMap:ЧАСОВОЯРСКИЙ ОГНЕУПОРНЫЙ КОМБИНАТ, ПАО

    Chasovoyarsky修理工場


     
    XARZ
    GoogleMap:110 ХАРЬКОВСКИЙ АВТОМОБИЛЬНЫЙ РЕМОНТНЫЙ ЗАВОД, ГП

    ハリコフ自動車修理工場

    ソ連のハリコフ自動車修理工場は、軍用追跡車両とトラクターを修理および近代化し、ソビエト後のしばらくの間、大型バスの小ロットを生産しました。HARZ-5259、Skif-5204、TUR A-061、そしてその後再び軍用および民間の自動車およびトラクター設備の修理に焦点を合わせた。

     
    YuMZ
    GoogleMap:ドニプロ

    ユージュマシュ

    国営企業「生産協会」南部機械製造工場
    「A.M.マカロフにちなんで名付けられた」
    (ユージュマシュ)は、
    ドニエプル川にあるロケットおよび宇宙技術
    およびその他のハイテク製品の生産のための
    ウクライナの大企業です。

    工場の長期ディレクターである
    AlexanderMaksimovichMakarovにちなんで
    名付けられました。

    ----------------------------------------




    以前はロケットや宇宙エンジンの生産で知られていましたが、ソビエト後の時代のドニエプル川(旧ドネプロペトロフスク)のエンジニアリング関係者であるユージュマシュは、バスA186、トロリーバスYuMZ-T1、YuMZ-T103、YuMZ-の小規模生産も習得しました。 T2、YuMZE186およびトラム。

     
     
     

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    日本

    西暦 etc 企業名 概要



















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    Wikipedia


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