最終更新日2021.11.24
    この数日、あたまの中で「やなぎなぎ/芽ぐみの雨」がずっと流れていました。




    私はこの曲をiTunesで購入済みなんですが、
    この所はYoutubeでよく見ていましたね。




    最近、よくブルーレイのCMが流れていたのがその原因です。


     
     ・やなぎなぎ 5枚目のオリジナルアルバム「エメラロタイプ」

     Youtube再生リスト

     エメラロタイプ



    やなぎなぎさんのチャンネルは登録済みで、
    時折そのチャンネルから沢山の楽曲を聞いています。

    当ページ内に再生リストを埋め込み可能なのですが、
    直接Youtubeかアプリで閲覧して頂けると
    利権者にCM収入が入りますので、是非そちらで閲覧してください。

    ページ内再生でもCMが出る場合があるのですが、
    とんでもらった方が確実です。





    この先、音楽の話は無し。
    おっちゃんの詰まらない話です。






    一説によればホモサピエンスとネアンデルタール人の石器を比較すると、
    2つの種族が分岐してから50万年の間に道具の進歩に大きな差があったそうです。

    作る集団の規模、発声器官の差異などから文化の伝播速度に
    大きな違いがあったとも言われています。

    小さな集団を作り、その集団内でしか技術の伝承がなかったネアンデルタール人。
    ホモサピエンスは大きな集団を作り「コミュニケーション」により新技術を伝播していった。
     その結果、技術レベルは上がったとも言われ、ネアンデルタール人の技術とは
    どんどん差が開いて行った可能性が指摘されています。

    海コンの運転手の多くがネアンデルタール人に見える時がある。
    些細な情報も「教えない」ことでマウントを取ろうとする。
    「上下関係」を強いるのがまるで「主人と奴隷」のような事を言いだす。
    カーストの意識が強いというか、劣等感が強いというか、
    優性思想か、差別主義者なのか、そんな感じです。
    あたまの悪いのに限って、その傾向が顕著です。

    誰かに聞いた配達先の住所やルートを別の誰かに教えただけで、
    一子相伝の我が家の「重要情報」を「勝手に教えやがって!」と
    激怒している奴もいる。
    「俺が教えるべきだったのに、クソ野郎が新人に教えやがって」
    なんて具合だ。


    プログラミング・コードや著作物を無限にコピーした方が人類の為には良い、
    そんな考え方も世の中にはある。
    私は、時代ごとの許容範囲があるだろう思います。

    最近、Youtubeで映画の切り抜きにはYoutube内のその映画の
    サイトに誘導する広告が表示されるようになってきました。
    楽曲のCM収入が著作権者に入るような仕組みに続いて、
    ゲームなどもその様になっていってますから
    もっと良い仕組みが出来上がっていくと良いなと思います。
    Youtubeはただの私企業の一つですからね、それそのものが
    世の中の常識という訳ではありませんから、広く広まると良いですね。


    ※ロシアとウクライナの広さがまるで分からないので北海道の輪郭を置いています。
    ベルリンからモスクワまでは約5北海道です。(単位:北海道)



    WW2欧州戦線マップレイヤー 確認用ページ

    こういうマップレイヤーを描いていると、
    沢山資料を読んだり、動画を見る事が必要になってきます。
    Wikipediaのコピーだろうなんて思う人も居るでしょうが、
    それをやるにしても予備知識が無いと線をなぞれないのですね。

    予備知識があると解釈が変わって来る。
    その結果、元の図よりも分かりやすく描ける。
    「文脈が繋がる」という事ですね。

    Covid-19の流行で世の中のコミュニケーションのあり方が変わってしまった。
    コミュニケーション能力のありなしが厳然と人を分けてしまった。
    テキストベースのコミュニケーション能力のありなしは
    SNS、LINEなどを使っていても分かる。

    上記埋め込みのマップは、ナチスがベネルクス三国・フランスに
    攻め込む1940年を描いています。

    この時代、日本も含めてとにかく暴力によって他者を支配しようとしている。
    互いに恐怖感で相手を威圧し、集団ヒステリーを起こし、暴力を振るう。
    これって、身近にいる「子供みたいな成人」達とまったく同一に見えてしまう。
    差別意識だとか、思想の問題なのではなくて「脳機能障害」なんじゃないかな。
    カープラザ飯野の事件でも、強い上限関係の強要だと言い出して
    そして暴力を振るって前科者になった奴がいる。
    それは他の人間もそれを煽っていたからで、社長からしておかしい人間だった。
    一般常識がまるで通用しない。ボケてるのでなければ、
    強い優性思想があるか、脳機能障害があるか、そんな気配を感じないわけにはいかない。

    SNSでも怒号を文字に替えて、映像や画像を使って
    短文の繰り返しと脅し、恐怖感を煽り、優しい言葉をかける、
    モラルハラスメントと洗脳が日常と同じように行われている。
    これって、ナチスや大日本帝国の軍事教育と同じに見える。

    短文で、極論を200文字も使わずに述べて
    「ハイ、論破wwww」
    という人は、反論しようがしっかり説明しようとしようが
    まったく誰の話も聞かない。
    ただ、その「論破(笑い」という「結果だけが欲しい」一団は固まっていく。

    結果だけが欲しいというのは、評価だけが欲しいと言い換えられる。
    役職に就くことで、仕事で出来る範囲が広がるという事がある。
    業績を上げていくためにポストが必要な人と、
    ポストだけが欲しい人が居る。

    役職だけが欲しい、係長、課長、部長になって偉いと思われたいだけ。
    それを笠に着て威張り散らしたいだけで、その役職になってやりたい事はない。
    生殺与奪の権を得たいだけで、他に何かをやりたいわけじゃない。
    あるとすれば「イジメ」を行って、「俺」を認めさせたいだけ。

    ・誰か認めてくれる他人が居て初めて存在確認できる人
    ・誰か面倒を見てくれたり、八つ当たりする人が必要な人

    「つまり、自律が出来ない名無しの個人」」
    そんな人は会社を退社したりするとただの人。
    何時までも過去の役職や何かの自慢話ばかりしていないとならなくなる。
    経験を後進に伝えてくれるなら全く問題ない。
    それと自慢話では全く違う。
    「昔に比べたら、お前らは」「俺は凄かった」そんな系統の話ですね。

    それは「資料的な昔の話」ではなく「現在の俺を崇めろ」という話なんです。


    ナチス党員幹部は多くの場合で、学業や社会の落ちこぼれだったのが
    ユダヤ人差別や暴力が肯定されるシステムの中で台頭していく。
    つまり、単純で思考が浅くて暴言が酷く恐れられ、暴力をすぐに振るう。
    そんな人間性の人物ほど出世してしまっている。

    そういうのを見ていますと、
    従来の沢山の人間が集まって、
    簡単な文言や、上辺だけの共感を
    大規模に広げていこうという事は
    まったく良い事がないなと感じてしまいます。

    これはただのイマジネーションでしかありませんが、
    ネアンデルタール人が無理にたくさん集まって
    集団心理を持ち、同時に個人の自己中な意識だけが大きな共感になってしまい
    集団ヒステリーに陥ってる、そんな風にたまに思えてしまう。

    誰もが他の誰かではない「俺」を主張しているのに、
    やってる事が全員同じで、「俺」のコピーが無数に要る様しか見えない。
    それはいつまでも名前を持った特定の誰かにはならない。
    「偉い人はどういう人だ」という曖昧で矮小なイメージの
    形の中に自分を押し込めているから、誰かに認められる「俺」という
    個性のない人物が出来上がってしまう。

    唯一無二の俺になるといいながら、ステレオタイプな「ただの名無しさん」にしかなれない。
    人に認めて貰う「俺」を目指す人は結局、誰でもない誰かにしかなれない。

    ホモサピエンスの情報の核を拡散するという特徴を考えると、
    物理的に大集団になる必要はない。
    伝言ゲームで情報劣化をさせなければ、大衆を前に演説したり
    集団心理の共有感覚を必要とせずに情報を拡散出来る。
    それがCovid-19ではっきりした様に感じています。

    マスコミュニケーションでは、簡単な標語に変換することで
    より大勢の人に言葉を広げられる。
    しかし、そこには情報劣化が発生し、ただしいイマジネーションを伝えることが出来ない。
    例えば、インフォメーション&テクノロジーの革命、
    ICTを「IT」に替えたことで沢山の人にITは伝わったけど、
    理解できない人もその言葉を知ったまでは良かったが、
    一方的な情報の供給ではない、双方向の通信技術という事は伝わらなかった。

    結局、沢山の人に伝える必要があったのだろうか。
    双方向に意思疎通が出来ない能力の限界はある人が大勢いる。
    果たして、理解できない人にまで無理矢理簡単に教える事に意味があるのだろうか。


    意味があるのか、ないのか、それは分からないけど、
    ホモサピエンスはきっと伝えていきたいのではなかろうか。
    そうやって生きてきた結果が今なのではないか、
    やなぎなぎのアルバムを聞きながらそんなイマジネーションを膨らませていました。


    LINEでもEメールでもチャットでも、人の話を聞かない人間は道具を使いこなせない。
    興奮してくると、短文を連投してきて、しまいには単語を連投してきて、
    こちらの長文を全く読んでいる気配がない。

    会話で怒鳴り散らして相手を制する、間違ったディベート術というモノがある。
    それは技術をして行っているのでなくて、生まれ持った本能の人が多い気がします。
    そういう人は元々人の話を聞いていないし、余計な情報をそぎ落とした
    LINEみたいなテキストベースの通信手段でも相手の文章を読んでいない。
    もしかしたら意図的に読まないのではなく、「読めない」人の割合も高いのかも。

    少なくとも直にあって怒声を浴びせられないだけど、LINEなんかの方がマシだ。
    そしてさっさと見切りを付けられる。
    愛嬌で乗り切る、不機嫌を押し付ける、甘える、怒鳴る、こんな人たちと
    直接会っても話は進まない。わがままを聞いてほしいという事を押し付けられるだけ。
    「会うべき価値のある人」であれば、リモートでも十分意思疎通ができる。
    こういう人と直接あって話せば情報量はさらに濃くなる。

    コロナ禍ではっきりと、会う意味のある人、意味のない人、
    その二種類の人があるのが広く分かってしまった。

    こういう事を考えると、リモートを取り入れた職場環境下から、
    発達障害の人の出世というのは遠のいていくように感じます。
    やがて、それは規範になっていくかもしれない。
    時代を振り返ると、Covid-19がその発端だった、という事になるんじゃないかな。
    そんな予感がします。