最終更新日2020.5.10

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    5月10日の時点でまだ書きかけになっていますが、
    ゴールデンウィークが終わるという事でまとめておきます。
    更新は随時やっていきたいと思っています。

    見る時の注意

    織田信長の行程のマップでは、「尾張国」のレイヤーのチェックボックスを外してみると見やすいです。
    チェックボックスがオンのままだと、尾張国と美濃国の詳細表示が表示されやすくなってしまっています。
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    織田信長の行程1 1560年頃まで



    織田信長の行程2 1560~1570



    織田信長の行程3 1570~


    一つのマップに全部の戦況を描いていったところ、かなり同じ場所で重複してしまう地点が発生したので切り分けることにしました。

    ひこにゃん」でお馴染みの彦根市にある井伊家の彦根城ですが、同市でその前は佐和山城が重要なお城でした。
    これらのマップを見ていると、中山道で近江に入ってきた最初の大きな町だという事が良く分かります。
    福井県方面へ抜けるのにも重要な場所で、石田三成は配置されたりという歴史もよく分かります。

    足利義昭・第15代将軍の足取りを追いかけると、三好勢と争った織田信長が安土城の場所を建設前から良く知っていた雰囲気が感じられます。

    関ケ原の合戦


    関ケ原のマップは前の記事で紹介していますが、改めて上記マップ作りで色々読んだまた思うところがあります。

    石田三成の居城の佐和山城は関ケ原の合戦の後に、小早川秀秋の陣取った山の麓にいた裏切り勢に襲撃されています。
    彼らは改易されたり減封されたりしています。
    徳川方の記録では、質素倹約であったという事になっています。
    後世談ではさすが豊臣の台所を預かったキレる忠臣であったという評価もあります。

    関ケ原で陣を張った時点で、既に劣勢は見えていたと思います。
    戦史を辿ると、野戦というのは比較的少ないという気がします。

    となれば、城に立て籠もるのが定石なのではないかと思いました。
    もしかすると、籠城できるだけの準備が無くて仕方なく関ケ原で野戦を行ったのでしょうかね。
    豊臣の奉行だった三成ですが、既に役を降ろされています。
    中立の豊臣家からは戦費を絞れなかっただろうし、徳川征伐を始めた時点で城からは
    3、4万人が籠城するのに必要な量の蓄えが既に無くなっていたかもしれない。

    味方の諸将が石成の籠城作を蹴っての野戦だったのかなとか想像してました。

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    [街道] 東海道

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    【Base03】五畿七道・令制国(飛鳥時代からの行政区分)



    国土地理院の地図

    カラーの設定

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    濃尾平野

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    大阪周辺

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    石山本願寺と織田信長との戦い、その後の大坂夏の陣・冬の陣の時の布陣図とか戦線の見方もこういう地図を見ながらだと捗りますね。




    新潟平野


    【N05】越後平野(新潟平野・蒲原平野)

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    新潟平野に関しては以前にも記事に書いたのですが、低湿地帯の「蒲原」がこの地図では見やすくなっていると思います。
    日本海の海流が南から北に向かって海岸線を流れています。
    山からの土砂は、「海岸堤防」を作っていきます。
    弥彦山から村上市に向かって海と河口デルタの仕切りが出来上がっていきます。
    この為、河川は河川堤防にぶつかって新発田市から新潟市にかけて左右に散らかっていきます。
    この河川の付け替え整理と「浦」の埋立が江戸時代から盛んになります。
    この時代に米の収穫量が大増加します。

    戦国時代の揚北衆(阿賀の川の北の衆)は律令制度が始まったころからの豪族の様です。
    戦国時代になって新発田家重の乱以降、新発田では織田信長の家臣の系列の溝口氏が入ります。
    新発田市以北では徳川政権の家臣が入れ代わり立ち代わり移封されてきます。

    「五十公野」は洪水に強かったことが高低図のマップから見て取れます。
    日本三大不動尊という菅谷不動尊は今は山奥にあるような感じになっていますが、
    こういう鎌倉時代前後を見るような図で見れば、朝倉氏の「一乗谷」同様に栄えた地域だったように思えますね。

    福井平野

    福井平野の高低図 国土地理院
     

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    12m以上で緑になっている。
    12m以下で青になっていく。
    朝倉家の有った一之谷は、今の地図で見ると山奥に見えるが、
    安土桃山時代を想像してみると、低湿地の農地より高い居住しやすい地域であったはずだ。

    北の庄のあった地域はおそらく、織田信長の柴田勝家の時代から豊臣に至る時代では
    土地が高くなってきて、この辺は港に近かったのではないでしょうか。





    令制国(飛鳥時代からの行政区分)五畿七道


    このマップに手を焼いています。
    これ輪郭を取るのに大分時間を割かれてい増しました。
    結果、他の作業が全然進みませんでした。

    ざっくりと輪郭を入れましたが、良く江戸時代以前の地名が出てくると
    何県のあたりだなとか、どこだろうとか漠然としていました。
    今回書いてみたら、割と分かったような気分にはなれましたね。

    何とかの国のかみ、なんとかの守護、というのはこの令制国の範囲です。
    封建制度では結構な箔が付いたことでしょうね。



    2020年、ゴールデンウィークが本日で終わるのですが、
    一応やっていたことはあったので言い訳的に書きました。
    ゲームしてテレビ見て寝て終わったわけじゃないのです~

    いやぁ、色々他にもやらないといけない事があったのに全く予定を消化できませんでした。
    まいったな、、、


    国土地理院 自分で作る色別標高図

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    日本全土
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    関東平野、霞ケ浦
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    南関東
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    濃尾平野から浜松平野
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    大阪ー摂津、和泉、河内
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    釧路湿原
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    湾の入口が閉まり、浦や潟が形成される。
    そして低湿地帯(蒲原)になっていく過程で、釧路湿原を蒲原に見立てるのも手ではないでしょうか。
    湾の入り口が砂丘堤防で閉じられると川の上流からの土砂が溜まりやすくなる。
    やがて葦などの植物が茂ってくると更に土砂が溜まる。
    そして土地が高くなっていく。