最終更新日2020.5.5



まだ完成には程遠いのですが、煮詰まってきたのでレイヤーを公開しちゃいます。


しろくろジョーカーというスマホアプリの合戦ゲームが好きでやっています。

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最近手に入れた真田昌行UR。まだレベル110
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ガチャでレアカードゲットして強化していくシステムなので、
まったくお金をかけないと辛いですね。
お金をかけなくてもそこそこは遊べます。

このURカードの場合、レベル140までは行けるけど、
上限のレベル150まで行くにはある程度の出費はしないと相当な時間がかかります。
また、カード6枚1セットで戦闘部隊を作るので1枚だけ強化しても意味がありません。
まあ、その辺の事はまた別の機会に。

時代劇のドラマや映画は大好きです。たまにNHKの早朝にやってる講談を観て歴史ものだったりしても見てられます。
だからこういうゲームも当然好きになりますよ。
沢山の戦国武将がカードになっていて、それを見ているのも楽しいです。

島左近や大谷吉継なんて武将は関ケ原で亡くなっています。
徳川豊臣、上杉や伊達や毛利や島津などといった大大名は誰でも良く知っていますが、
その二人なんて活躍が関ケ原で終わりですから割となじみが薄いと思います。

そんな関係でふと関ケ原の合戦を思い出して、Youtubeを観たりWikiや沢山のブログをちらちら見ていました。
随分と長い間、10年か20年か分かりませんが関ケ原の合戦を想像するなんて事はありませんでした。

改めてこうしてGoogleMapで見てみたら随分と記憶の中のモノとは違っていました。


Youtube 空から見た関ヶ原の戦い


岐阜関ケ原古戦場記念館(MAP)関係の動画の様です。
こちらの動画は大変勉強になりました。

歴史のドラマでは、色々脚色がなされています。
史実を追いかけすぎても理解を越えますし、かといってあまりにもドラマ仕立てでリアリティにかけるのもどうかというのはあります。
こういう事は好きな人はリアリティを追いかけて調べてみましょう、といったところでしょうか。

天下分け目の大イクサであったのか?

まず、これは違いますね。
一連の戦役の最後に関ケ原の合戦があります。

ざっくり言って
  1. 秀吉が亡くなる。
  2. 家康が台頭する。
  3. 豊臣政権で内部分裂
  4. 2年後、家康が上杉討伐を開始する。
  5. 徳川が大阪を出た隙に、奉行ではなくなった石田三成が毛利など諸将を召喚し徳川討伐を開始する。
  6. 陽動で合図に転封された上杉が最上氏に旗を揚げる。米沢の直江兼続をはじめ上杉方が挙兵。
  7. 伊達が徳川方について山形の最上と一緒に上杉攻めを行う。
  8. 徳川の2代目、秀忠が宇都宮で家康を待つ。
  9. 大阪の毛利などが京都の徳川の伏見城を襲撃。
  10. 家康が下野国小山から江戸に引き返し、東軍集めを行う。
  11. 豊臣家の石田三成の反対勢力が徳川側につく。(徳川はこの時点では豊臣家の家臣で家老職)
  12. 豊臣家内の2大勢力の抗争に発展する。大阪はお金を出さない。どっち側も家臣。
  13. 石田三成は清州のあたり、現在の名古屋市くらいを防衛線と決めて行動。
    伊勢と濃尾を抑えて迎え撃つつもり。
    そして豊臣の反石田勢と徳川の勢力が強い東海道を下るつもり。三成の城は琵琶湖のほとり。
  14. 東軍は東海道と中山道に兵を二分する。
  15. 秀忠率いる中山道方面は徳川の精鋭主力の本隊で、宇都宮から碓氷峠を越える。
  16. 上田城の真田昌行の2千の兵力を叩きに行くも大苦戦する。
  17. 三河周辺の諸将が清州城に入る。清州城はそれ以前に明け渡し要求をしたが受け入れられず。
  18. 8月21日に東軍が出撃。10日あまりで美濃を平定。大垣で戦うつもりの石田勢西軍は関ケ原まで撤退。
  19. 9月1日に調略を行っていた家康が江戸を出発。
    2週間で赤坂の陣(現在の大垣市)にやってくる。
  20. 伊勢攻めをしていた毛利、宇喜田が合流。
  21. 中国勢の毛利、吉川、小早川の内毛利以外が調略されて徳川方につく。
  22. 小早川秀秋は毛利が入る算段にしてた松尾山を占拠する。
  23. 9月15日、未明に東軍が関ケ原に布陣。
  24. 午前八時、濃霧が晴れてくる直前に徳川家の直臣の井伊直正と松平忠吉が先陣を切る。
    秀忠が遅れたことで徳川家のメンツが潰れている。
  25. 6時間余りで戦局が決着する。
およそ1か月に満たない戦局の最終盤の局面が「関ケ原の戦い」だ。
関ケ原の陣形としては東軍が不利に一見見えるが、松尾山の小早川と麓の諸将の裏切りと毛利が動けないところを見れば、東軍は包囲されていない。

250年くらい続いた徳川政権の歴史的にあとからの理解だと、徳川家康軍VS石田三成軍に見えてしまう。
そうした語り口が多いのだが、この当時の見方で考えると福島正則などは大老の徳川の家臣ではない。
同じ大名の立場の反石田連合軍に過ぎない。東軍というのは徳川の家臣団ではない。

小早川と吉川などを西軍から差っ引くと、西軍の実質勢力は3万人前後。東軍は7,8万人。
小早川が遅れはしたが西軍に攻撃を仕掛けたので戦線は一気に崩れてしまった。

島津などは募兵していたから義勇軍みたいな感じで少数しか出兵していない。
9月1日は大勢は決していたといっていいだろう。

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良く拮抗した兵力がぶつかったという宣伝を見るけど、まるきり拮抗していない。
戦う前から結果が出ていて、それがたまたま関ケ原で終わってしまったという話だろう。

総大将が現場にいた事で決済が早かったという風に見える。
通常、戦国時代の後半では勢力が大きくなっていくと総大将は自分の居城にいる場合が多い。

北國街道と中山道の関になっている西軍陣地防衛が出来なかった場合、
更に後方に逃げて体制を立て直すという考えはなかったのか?

これも西軍大将の石田三成が逃げきれなかったことから見て、
三成は立て直しはきかないと思って奮戦したんだろうか?と思います。

清州城を抑えられず、岐阜城陥落、大垣城放棄、と開戦の初めから西軍は敗走の体をなしていたと見るべきだろうと思います。


関ケ原にギュウギュウ詰め


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マップレイヤーではまだ書き込み密度が低くてそうは見えないかもなんですが、
最前線は各武将が横一列にギュウギュウ詰めに並んでいます。

良く映画やドラマだと騎馬兵が駆け回り、人が入り乱れている光景があります。
しかし、トラックドライバー的な視点で見ると、数万人が横に並んで鉄砲隊も入れ代わり立ち代わりですから、大勢が決して敗走が始まるまで騎馬兵は動けないだろうと思います。
鉄砲の撃ち合いの後、足軽同士の槍の突き合いが正午過ぎまで続いたんじゃないでしょうか。

通常、合戦の前は大規模な造成工事を行って防塁などを築きます。
馬防壁などもありますが、グーグルマップで見てるとあんまり工事はやっていないような感じですね。
また川が流れている河原とかもあるので、河岸段丘があります。

段丘と自然の堀(川)と湿地や背の高い草原が続くので、人馬が楽に入っていける地形が少ない。
結局、街道沿いに人が集中していたと思いますね。

結果から見れば、まあそれは現在進行形で見ることは不可能なんですが、
関ケ原で戦闘を行うというのはやらない方が西軍にとっては良かったですね。

当時、両軍にここで決戦をやろうなんて意識があったのかは疑問があります。
西軍としてはここで数時間で敗れるとは思ってもみなかったという事でしょうね。
やっぱり、小早川秀秋の急襲が一気に膠着状態を一変させたことを考えれば西軍には痛かった。

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小早川秀秋の西軍攻めについて。

今回、マップを描きながら改めて今の読めるものと見れるもので現状の通説というのを知りました。

小早川秀秋は裏切り者ではないというのが率直な印象ですね。
最初から家康に調略されていたと思います。

前日まで近江に居て時間をつぶしている辺りからしてもう怪しい。
毛利が入っていれば問題の無かった松尾山を占拠しています。
戦後、小早川は加増・移封されている。
他の裏切り武将は事前に東軍と話がついていない場合は改易されたり減封されている。

毛利に関しては微妙なところで、毛利家と両川と呼ばれる吉川と小早川で方針が割れていた可能性が強い。ここに強いリーダーシップだった元就の頃とは違う弱さがあったような印象ですね。

西軍の敗戦は見えていたか?

決定的な兵力差がある場合、籠城戦に持ち込んで裏で調略を図り、
勝てそうになければ和議を画策するというのが常とう手段でしょう。
中国勢の離反を読み切れなかった三成ですが、読めなかったのかな?

よく知略に富んでイクサ下手なんて評判の三成ですが、
よほど頭に来てて感情論に突き走り決戦を急いだんじゃないかとも思えます。

大谷吉継は戦に勝てないと三成の所に説得に行って、友情に負けて参戦したようですね。
そうして考えてみると奉行をおろされた時点で既に負けていたんですね。
それとも西軍側の諸将の感情を汲む係になっていたせいで、墓穴を掘る結果になってしまったのでしょうか。

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水軍と平野の風景

大河ドラマや時代劇の行軍風景は山の中、林の中を進むイメージが強いです。
GoogleMapに行軍した様子を描いていると、全く別の風景が見えていきます。

中山道のルートのライン自体は数年前に書いていたものです。
今回それがあったので、それをベースにしてこのマップを描き始めました。

まず、濃尾平野は木曽川をはじめ大きな河川が沢山あります。
海側の平野部のおおかたが人の住めない湿地帯、河口デルタであったでしょう。

大雨が降れば川筋が変わっていくので、高台と山側にしか人は住めません。
平野部には島になってる地域がところどころにあって、それが現在ある町の基盤になったでしょう。

尾張国 GoogleMapレイヤー


美濃の街道は北側に持って行かないと大き下河川の渡河が沢山必要になってしまいます。
尾張より美濃の方が栄えていたんでしょうね。
現在のイメージで言うと名古屋の方が圧倒的に知名度が高く、岐阜市は知名度が低い。
安土桃山時代の頃で言えば中山道もあるし交通の要衝ですから圧倒的に逆転していた事でしょうね。

この安土桃山時代では「水軍」の活躍が多いですね。
水軍といっても海賊とか海のやくざみたいな印象が私は強いです。

そういう連中が沢山いるというのは、普通の北前船みたいな交通量は既に多くあったことを示唆しているでしょう。

東海道や中山道は物流の主役ではなかったはずです。
峠道が結構な山道で、現在の感覚で言えばトレッキングといっていいような区間も多いですしね。
碓氷峠は荷車を曳くのはかなり厳しい印象ですが、それ以上の山道は沢山あります。

そういった区間もありますが、平野部は結構な平野だっただろうと思います。
ドラマ撮影であるような山間部の映像は、愛知と岐阜の平野部ではまるでなかったんじゃないですかね。

関ケ原は古くから交通の要所でしたから、開けてた気はします。
北国街道、伊勢街道、中山道、他の街道も集まっています。
大量輸送を必要とする部分は水運だったはず。

こうした街道は地域経済を繋ぐ幹線道路。
道幅は衛星写真で見てても狭いのは見て取れるのですけど、
田舎のあぜ道の様な軽トラックの走るわだちの間は草ボウボウ
みたいな感じではなかったことだろうなと思います。

関ケ原の戦いの前の1週間くらいは怖くて中山道に行けなかったんじゃないかな。
商人、荷馬を引いた馬子、月に数度の市に向かう百姓、そうした人たちは大迂回してたのかな。

周辺道路は大渋滞してたんじゃないかとトラックドライバー的に思うと何か興味深い思いがします。

濃尾平野の高低図


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カラーの設定は下記のようになっています。
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「清須会議」の風景が非常にいいですね。

1582年の出来事なので1600年の関ケ原の戦いの大分前の話になります。

1582年、本能寺の変
1583年、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい) 。羽柴秀吉と、柴田勝家とお市との闘い。
関ケ原の合戦と同様で、統領を失った織田家を二分する内部分裂の内乱。
1582年~1583年、文禄の役(休戦)。朝鮮出兵
1590年、小田原攻め
1597年~1598年、慶長の役(秀吉の死によって撤退)。朝鮮出兵。
1614年、大坂冬の陣
1615年、大阪夏の陣。豊臣家滅亡。





1590年の小田原征伐を描いた「のぼうの城」。
石田三成が羽柴秀吉の備中高松城(岡山市)への水攻めを真似た試みの逸話が元になっている。

水攻めと書いたけど、合戦シーンがかなり良いです。

忍城
埼玉県行田市本丸17−23


忍城の戦い Wikipedia





街道を行き交う物流の様子が見れる。



福井平野の高低図 国土地理院


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12m以上で緑になっている。
12m以下で青になっていく。
朝倉家の有った一之谷は、今の地図で見ると山奥に見えるが、
安土桃山時代を想像してみると、低湿地の農地より高い居住しやすい地域であったはずだ。

北の庄のあった地域はおそらく、織田信長の柴田勝家の時代から豊臣に至る時代では
土地が高くなってきて、この辺は港に近かったのではないでしょうか。