最終更新日 2018.8.16

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ウィキペディアの旅順攻囲戦をグーグルマップのレイヤーに書き写す作業をしています。
本文をコピーしながら作業をしています。
作業は未完です。いずれウィキペディアを読みながら、
スマホでマップを開いて進捗情況を確認できるよう地名の特定を進める予定です。



現在の旅順新港は鳩湾となります。

衛星写真にあわせて編集しています。
中国のマップは衛星写真と一般図では数キロのズレがあります。

スマートフォンアプリで開いた場合、
地図を傾けられます。
壱例では、海鼠山(南山坡山)から西港を臨むことが可能に成ります。
PCで地形を傾けて見る方法は下記に記します。

1904年(明治37年)~1905年(明治38年)
日露戦争関係マップ

旅順攻囲戦 Wikipedia





Go!Go!キョロちゃん




Youtube 二百三高地(東映)

露助:と作中に出てきます。発音はリンク先で確認願います。
ロゥシュケと書いたら発音が近いのかな。
明治時代の外来語は発音に近い。アメリカはメリケンなどのように。



3D状態の傾けた地図にレイヤーを被せる方法:PC編

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上のマップのタイトルの右横に星印がある。

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PCブラウザでグーグルマップを開く。
左上のプルダウンメニューを開く。

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マイプレスを開く。

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マイプレスのマイマップをクリックする。
最初の星印をつけなくても、ここのリストに入ってると思うが
星印をつけたほうが確実。


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目的のマップを開き、衛星写真をオンにする。

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メニュータブを畳む。

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シフトキーを押しながら任意にマウスをドラッグすると地図が傾く。

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概要
1896年
明治29年

露清密約
1896年6月3日にモスクワでロシア帝国と清の間で締結された秘密条約。

1898年
明治31年

ロシア帝国は遼東半島租借
旅順口太平洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、
港湾を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)。

1902年
明治35年

陸軍側
は参謀本部が満州攻勢作戦の研究を1902年より始め、
その中で、旅順攻城を佐藤鋼次郎少佐が担当した。
1903年11月頃の参謀本部内の意見は、
兵力の大部分を遼陽方面へ北進させ予想される大決戦に集中させ、
旅順は一部の兵力による封鎖監視に留めるべきとの考えが大勢だったが、
佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた。

1903年
明治36年

海軍側
は独力で旅順艦隊を無力化する方針を取り、
  • 第一段階:港外奇襲
  • 第二段階:港口封鎖(閉塞)
  • 第三段階:港外からの間接射撃
によって港内の艦艇を撃沈という作戦計画を立てた。
これに基づき1903年の夏には間接射撃のための試験射撃を行った。

1903年12月30日に陸海軍間で開戦に関する協議が行われた。

旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき
との海軍側の主張と

臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき
との陸軍側の主張とが対立したが、
陸軍が譲って海軍案に決着した。

海軍は独力による旅順艦隊への対処を言明していたが、
陸軍はその後も旅順攻城の研究を進め、
1904年1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、
陸軍省に所要資材の照会がなされた。



1904年
明治37年

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、
旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する
日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。

開戦後、海軍は港外奇襲港口閉塞作戦を実行したが、
不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全された。

2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始める。

3月以降は第二艦隊を対ウラジオストク巡洋艦隊専任に
割かねばならなくなったが、港口の閉塞を目的とした作戦は続けられた。

陸軍は3月上旬までは封鎖監視で
十分であるとの考えもまだ多かったが、最終的には、
3月14日、2個師団をもって攻城を行うこととし、作戦目的を
地上より旅順要塞を攻略し、北上する日本軍主力の後方を安定化する
と決定した。

海軍は第二回閉塞作戦を3月27日に実行したが不成功だった。
しかし4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執しており、

4月6日の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と
海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に
陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず
という1文がある。

また海軍は12-13日に機雷を敷設した。
ロシアは5月にバルト海に所在する艦船群
(未完成艦含む・バルチック艦隊)の極東派遣を決定・発表した。

もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、
日本海軍の倍近い戦力となり、朝鮮半島周辺域の制海権はロシア側に奪われ、
満州での戦争継続は絶望的になると考えられた。

5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。

5月9日より、日本海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を

遊弋させる直接封鎖策に転換したが、
主力艦が貼り付かざるを得なくなり増派艦隊への対応が難しくなった。

15日には当時日本海軍が保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った。
日本軍としては増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、
海軍はこの頃陸軍の旅順参戦の必要性を認めざるを得なくなった。

このような経緯に加え攻城の準備は複雑なため、
第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。

軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で
旅順攻略に参加した乃木希典大将が、

参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。

軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わった。
軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。

第3軍の主力としては、すでに金州城攻略戦を終えて
主戦場と目される満州南部へ北進する第2軍から
2個師団(第1師団〈東京〉、第11師団〈香川、四国四県〉)が抽出され当てられた。

6月20日に満州軍(総司令部)が設置され、第3軍もその下に入った。
第3軍の使命は、速やかに要塞を陥落させ、
兵力を保全したままその後に第1・2軍に合流することだった。

1904年
6月26日

日本海軍は、独力で旅順艦隊を無力化することを断念し、
1904年7月12日伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、
 旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請した

その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出した。
6月31日、大本営からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ていた。
しかし陸軍は、旅順要塞を攻略する方針を固めることが遅れたため、
 情報収集が準備不足だった。

ロシア軍の強化した要塞設備に関する事前情報はほとんどなく
第三軍に渡された地図には要塞防御線の前にある 前進陣地
竜眼北方堡塁水師営南方堡塁竜王廟山南山坡山203高地など)
 が全く記載されていなかった。
 防御線でも二竜山東鶏冠山両堡塁は臨時築城と書くなど誤記が多かった。

こうした中で要塞攻略の主軸を
どの方向からにするかが議題となった。
戦前の図上研究では平坦な地形の多い
 西正面からの攻略が有利であると考えられていた。
しかし第三軍司令部は大連上陸前の事前研究に
より その方面からの攻略には敵陣地を多数攻略していく必要があり、
 鉄道や道路もないので攻城砲などの部隊展開に
時間を 要し早期攻略できないと考え東北方面の主攻に方針変更した。

しかし新たに参謀本部次長となった長岡外史や、
 満州軍参謀井口省吾らが西方主攻を支持し議論となる。
 ただし、この主攻の選択はあくまで要塞攻略の主軸を
どの方面に するかの話であり、後に出る203高地攻略とは別の議論である。
結局この議論は第三軍司令部が現地に到着する7月ごろまで持ち越される。
その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出していた。

7月3日
7月3日、コンドラチェンコ師団の一部が逆襲に転じるが
塹壕に待ち構える日本軍の反撃に撤退した。
 その後第三軍に第9師団後備歩兵第1旅団が相次いで合流し戦力が増強された。
このあと乃木は懸案だった主攻方面を要塞東北方面と決定した。
この理由には下記があった。
  1. 要塞の死命を制する望台は東北方面にある。望台は第二防衛線内で最も標高が高く、その砲台はロシア軍支援砲撃の要であり、旅順港及び市街地も全てを見渡せる。
  2. 西方主攻を行うには展開までに敵前の開けた平地を長駆移動せねばならず危険
    1. 鉄道も攻城砲などの砲を移動できる道路もないので砲兵展開が難しい
    2. 203高地や南山坡山などの前進陣地が多くあり、それらを制圧後2km前進した上で要塞防御線攻略となるので時間が掛かる
7月26日
準備を整えた第三軍は7月26日旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始し、
主目標はそのうちの東方の大孤山とした。

3日間続いた戦闘で日本軍2,800名、ロシア軍1,500名の死傷者を出し、

30日にロシア軍は大孤山から撤退した。

この頃乃木は、来るべき総攻撃の期日を、
増援の砲兵隊の準備が整うのを待って8月19日とする決断をした。

8月10日
 8月7日、黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊大孤山に観測所を設置し、
旅順港へ12センチ砲で砲撃を開始。

9日9時40分に戦艦レトウィザンに命中弾を与えた。
またレトウィザンの直近に停泊していた艦船への命中弾は爆発を引き起こし、
それがレトウィザンに浸水被害を与えた。



8月10日、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に被害が出始めたことで、
艦隊司令ヴィトゲフトは、極東総督アレクセイエフの度重なる
ウラジオストクへの回航命令に従い、旅順港を出撃した。

海軍側が陸軍に要請した
旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことは、
これによって達成された。

 しかし日本連合艦隊は黄海海戦で2度に亘り
旅順艦隊と砲撃戦を行う機会を得つつも
駆逐艦の1隻も沈没せしめることなく、薄暮に至り見失い、
旅順港への帰還を許してしまう。

帰港した艦艇のほとんどは上部構造を大きく破壊され
旅順港の設備では修理ができない状況だった。

最も損害が軽微だった戦艦セヴァストポリだけは
外洋航行可能にまで修理されたが、旅順艦隊はその戦闘力をほぼ喪失した。

帰港後は、大孤山から観測されないよう、狭く浅い湾内東部に停泊させた。

1904年
明治37年
8月18日

総攻撃を前に第三軍は軍司令部を柳樹房から鳳凰山東南高地に進出させた。
さらに団山子東北高地に戦闘指揮所を設け戦闘の状況を逐一把握できるようにした。
ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所で
しばしば敵弾に見舞われる場所であった。
以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られることになった。

8月18日深夜、第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)
各師団は其々目標とされる敵陣地の射程圏ぎりぎりまで接近し総攻撃に備えた。









第一回総攻撃(明治37年8月19日~22日)

5つの連隊がほぼ全滅的打撃。
その他の連隊も半数以上の将兵を失う。
第七連隊(金沢)、寺島中隊が磐龍山を占領、
2900名の90%が戦死、生存者291名。


19

翌8月19日、各正面において早朝より準備射撃が始まる。
当初はロシア側は日本の砲兵陣地の位置を
正確に把握できておらず反撃も散漫だったが、やがて本格的になり、
この日は両軍合わせて500門の火砲が撃ち合う激しい戦闘となった。

乃木も午後1時に双台溝236高地に登り戦況を視察した。
ロシア軍ではこの砲撃で松樹山二龍山盤龍山
東鶏冠山小案子白銀山望台の各保塁・砲台に大損害が出ており、
東鶏冠山第二保塁では弾薬庫が爆発し守備兵が全滅し、
二龍山保塁では主要火砲の6インチ砲がすべて破壊された。

こうした光景を目の当たりにして日本軍前線の将兵の士気は大きく高まったという。
2日間の砲撃戦ののち、21日に第三軍は総攻撃を開始した。

第一師団

総攻撃開始に先立つ19日午前6時、友安安治少将率いる
後備(予備役等)歩兵第1旅団(第1師団の指揮下として右翼隊を形成)は
目標の大頂子山に攻撃を開始した。
一部が敵前至近距離に迫ったものの猛烈な反撃を受け撃退された。
夜半になり夜襲を仕掛けるも戦況は好転しなかった。

20日には歩兵第二旅団(旅団長:中村覚少将)基幹の左翼隊は
水師営南方高地までは順調に進んだがここで敵の抵抗にあい、
それでも水師営の一部と同西溝の猛攻の末22日に占領。
夜半には93高地を夜襲で奪取した。

明けて21日、師団長の松村務本中将は司令部を高崎山に移す。
歩兵第1旅団(旅団長:山本信行少将)基幹の中央隊が
第一師団の攻略目標である南山坡山(通称海鼠山)及び
その北端の鉢巻山を総攻撃。

22日までにさしたる抵抗もなく占領するが
まもなく激しい逆襲が行われ白兵戦が幾度となく展開された。
日本側は増援を送ろうにも鉢巻山へ至るには
敵の寺児溝北方陣地の麓を通らねばならず、
占領部隊への増援、補給は至難だった。

補給線の確保も失敗し兵士たちは
匍匐前進で弾薬や糧食を運ばなければならなかった。

第9師団

第9師団(富山、石川、福井)でも歩兵第18旅団(旅団長:平佐良蔵少将)基幹の
右翼隊が19、20日と竜眼北方保塁へ攻撃を開始。
しかしこの方面は攻撃側が身を隠すような草木もなく、
付近の砲台から集中射撃を受けて大損害を被る。

21日、左翼隊の歩兵第6旅団(旅団長:一戸兵衛少将)が
盤龍山南北の堡塁に攻撃を開始。

配下の歩兵第7連隊では3人の大隊長のうち2人が戦死し、
遂には連隊長大内守静大佐自らが先陣をきって突撃するも、
28発もの銃弾を浴びて戦死する程の激戦となった。
一戸少将は歩兵第35連隊を増援に送るが失敗し、
先月30日に戦傷で交代したばかりの連隊長、
折下勝造中佐が戦死してしまう。
このため一戸は夜陰に乗じて攻撃する方法に切り替える

22日午前0時、各隊は一斉に夜襲をかけるが、
ロシア軍は探照灯や照明弾で周囲を照らし
機関銃を乱射してそれを阻んだ。
戦闘は明るくなっても続き後備歩兵第8連隊が増援、
午前10時頃、盤龍山東堡塁の占領になんとか成功、
午後8時には西堡塁も占領した。

しかしこの間戦い続けた第7連隊は大損害を被り、
確保時の残余兵力は将校以下71名だった。
ともかく第9師団(富山、石川、福井)盤龍山東西堡塁の攻略に成功し、
ここは半ば要塞の第二防衛線に食い込んだ要地で望台までは約1kmだった。

第11師団

第11師団(香川県・徳島県・愛媛県・高知県)

第11団長土屋光春中将は司令部を大弧山北嶺に移すが、
敵の銃撃を受け、参謀2名が戦死した。

歩兵第10旅団(旅団長:山中信義少将)は東鶏冠山北堡塁、第二堡塁を攻撃。
北堡塁の方は直前に外壕が見つかり、工兵隊の犠牲のもと、
巨大な外壕に二条の突入路を築き、部隊が突入するが集中砲火を浴び、
突入隊隊長の本郷少佐以下多くの死傷者をだし、
外壕に躍り込んだ隊は全員戦死した。

第二堡塁の方は占領には成功するも退却する
ロシア軍が放った火が壕内の弾薬に引火し爆発、
それが引き金となる周囲の堡塁砲台から
集中射撃を受け突入隊隊長の吉永少佐以下死傷者が続出し、
弾薬も無くなり残余兵40名はやむ無く撤退。
鉄条網下の地隙に援軍をまった。
僅か3時間の占領であった。






第二回総攻撃後半戦(明治37年10月26日-30日)


10月18日、第三軍二龍山堡塁と、松樹山堡塁の同時攻略計画を打ち立てた。
双方の堡塁は密接な関係に有り、攻撃区分では第9師団が担当であったが
戦力の余裕がなく、松樹山堡塁攻撃は第1師団が担当する事にした。

23日、第三軍は各参謀長会議を行い、26日の総攻撃を決定した。
第1師団松樹山堡塁第9師団二龍山堡塁盤龍山堡塁東南の独立堡塁
第11師団東冠山の各堡塁(但し攻撃は第1・9両師団の攻撃が成功した後)を
攻撃目標とする。 この時点での主要部隊の戦力は
  • 第1師団 6869名(将校含む・以下同)
  • 第9師団 7277名
  • 第11師団 6940名
  • 後備歩兵第1旅団 3636名
  • 後備歩兵第4旅団 3368名
であった。早朝よりの攻城砲兵による砲撃の後、
まず第1師団第9師団が攻撃を開始した。

第一師団

第1師団では左翼隊の歩兵第2連隊が敵散兵壕の動揺を
捉え突入しこれを制圧。ここから松樹山へ坑道掘進を開始する。
ロシア側も坑道を掘り、爆薬を仕掛けて日本側の坑道を
破壊するなどで抵抗した。
29日になるとロシア軍は逆襲に転じ午前7時に散兵壕を奪取される。
第1師団は直ちに逆襲に転じて午後1時30分にはこれを奪い返す。

翌30日、攻城砲兵の事前砲撃の後、第2連隊は
松樹山堡塁への突撃を開始した。
周囲からの砲火を浴びながら連隊は敵塁の真下まで
進出するが外壕の突破に手間取っている間に大損害を
被りやむなく撤退する。
そのため外壕外岸からの坑道作業に入るが
攻撃準備完了まで期日を要することになる。

第9師団
第9師団は右翼隊の歩兵第19連隊二龍山堡塁の斜堤散兵壕を
占領し坑道掘進を開始する。
更に左翼隊も歩兵第7連隊盤龍山北堡塁に突撃し、その1角を制圧する。
二龍山堡塁では松樹山と同様に血みどろの坑道戦が展開される。

30日、まず右翼隊が二龍山堡塁の外壕の破壊に取りかかる。
しかし敵塁からの集中射撃と松樹山からの側防射撃に
阻まれ占領地を確保するのがやっとであった。
他方、一戸少将が指揮する左翼隊は盤龍山東堡塁東南の
独立堡塁(P堡塁)への攻撃を開始。
午後1時、工兵隊の爆破した突撃路を使って歩兵第35連隊が突入。
僅か2分で堡塁を制圧する。

しかし午後10時30分頃、ロシア軍が逆襲に転じ、
占領部隊は将校を多数失い退却した。
堡塁下にいた一戸少将は退却の報を受けると
予備の1個中隊を自ら率いて奪還に向かい、奪取に成功した。
一戸少将の勇猛な活躍ぶりから、
後にこの堡塁は「一戸堡塁」と命名される。

第11師団
第11師団は待機していたが松樹山二龍山の占領がまだなので攻撃できずにいた。
しかし既に攻撃準備が整っており、この際は多少の犠牲も覚悟して
突撃すべしという結論になり、30日より攻撃を開始する。

30日午後1時、まず右翼隊の歩兵第22連隊
東鶏冠山北堡塁を攻撃しその1角を制圧。
しかし第2堡塁に向かった歩兵第44連隊は集中砲火を浴びて壊滅する。

中央隊の歩兵第12連隊は第1堡塁に向かう。
前面の散兵壕を蹴散らしつつ進撃し砲台も占領した。
しかし周囲からの射撃を受け被害が続出し、
戦線維持が困難になり退却を余儀なくされる。

31日、未だ士気旺盛な右翼隊は外岸側防を制圧。
しかし血気にはやる一部部隊が砲兵の支援を待たずに突撃し壊滅。
結局第11師団東鶏冠山を制圧できず、坑道作業に移行していく。

攻撃
中止

日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、
ロシア軍も戦死616名、負傷4,453名と日本軍以上の損害を受けた。
乃木は各師団が坑道作業に入った事で作業完了までには期日が必要と判断。
総攻撃を打ち切った

日本軍は前半戦の作戦目的は203高地以外は達成した。
しかし後半の主要防衛線への攻撃は第9師団がP堡塁を占領した以外は失敗。
このため日本側は第二次総攻撃も失敗と考えた。







第三回総攻撃(明治37年11月26日-12月6日)




第二回総攻撃の失敗はバルチック艦隊の来航に危機感を募らせる海軍を失望させ、
要塞攻略よりも艦隊殲滅を優先し、観測射撃のための拠点を得るため
203高地を攻略すべしという意見が出てくるようになる。
他方第三軍の上級司令部である満州軍は当初より要塞攻略を優先する方針を変えず、
そのために望台を第一の攻略目標にすることを変えなかった。
また望台攻略への寄与が小さい203高地攻略には反対だった。
第三軍も二回目の総攻撃は失敗したとはいえ、
東鶏冠山堡塁の一部や同山第一堡塁、一戸堡塁を占領することには成功し、
東北正面の防衛線をあと一歩で抜くことが出来たので、
引き続き要塞正面を主攻にするという立場だった。

11月14日、203高地主攻に固執する参謀本部御前会議
「203高地主攻」を決定する[67]
しかし満州軍総司令官大山巌元帥はこれを容れなかった。
大本営からの要旨にある

旅順港内を俯瞰し得る地点を占領し、
港内の敵艦、造兵廠などに打撃を与うることをのぞむ


で、203高地を直接名指しして命令していないことを逆手に取り、
第三軍司令官をして、是迄の計画に従い鋭意果敢に攻撃を実行せしめ、
旅順の死命を制し得るべき『望台』の高地を一挙に占領せしむるの方針をとるべし…
」。

203高地を落としても観測点として利用するだけでしかなく、
砲を備えて敵艦を沈めるには長大な期日を要し、目的を達成できない
」。

などと反論し、要塞東北方面攻略の立場を崩さなかった。
総参謀長の児玉源太郎大将も、10月までの観測砲撃で
旅順艦隊軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃禁止を第三軍に命じた。
また海軍のバルチック艦隊来航の脅威を必要以上に誇張し、
海軍の都合だけ考えて海上輸送を中止しようとする一連の動きに対し抗議した。
こういった上層部の意見の食い違いは乃木第3軍を混乱させ、
第三回総攻撃案に大きく影響を与えた。

11月中旬に盤竜山一戸両保塁から両側の二竜山
東鶏冠山保塁の直下まで塹壕を掘ることに成功しさらに
中腹からトンネルを掘り胸壁と外岸側防を爆破することを計画。
総攻撃は11月26日と決定された。
また参謀本部も内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、
第7師団(北海道)を投入、部隊を第1師団第9師団の間に配置し総予備とした。

各師団の攻撃

11月26日、松寿山堡塁攻撃を担う第1師団左翼隊は午後1時より外壕より突撃した。
しかし身を潜めていたロシア軍の奇襲と周囲からの集中砲火と
内壕の敵兵の逆襲で突撃した兵は壊滅。
午後2時50分には外斜面に退却するしかなかった。

第9師団も午後1時より二龍山堡塁へ突撃を開始した。
松寿山堡塁などからの側射を受けて大損害を受けたが突入を続け、
なんとか敵前100mの地隙に到達するがそれ以上は進撃できなかった。

第11師団東鶏冠山北堡塁の胸塔2箇所に爆薬を仕掛け点火。
その後歩兵第22連隊が突入した。
しかし敵堡塁の破壊は僅かで白兵戦となり多くの犠牲をだす。
午後1時40分には土屋師団長が重傷を負い陣地の争奪が激化、
占領地の維持は出来なかった。

白襷隊
の突撃

26日夜半、有志志願による特別支隊(第1師団歩兵12.25.35連隊の選抜隊員を基幹)
白襷隊(しろたすきたい)」が歩兵第2旅団長を、
中村覚少将の指揮のもとに攻撃を行った。
この突撃隊は夜間の敵味方の識別を目的として、隊員全員が白襷を着用していた。
白襷隊は午後5時に薄暮の中行動を開始、集結点で月が昇るのを待ち、
午後8時30分、目標へ動き出した。

午後8時50分、白襷隊は一斉に突入を開始した。
しかし目標の松樹山第4砲台西北角には幾重にも張り巡らされた鉄条網があり、
その切断作業中に側背より攻撃を受ける。
白襷隊はひるまず突入し散兵壕を目指すが
前方に埋めてあった地雷により前線部隊はほとんど全滅。
後続部隊も奮戦するが死傷者が相次ぎ第1線の散兵壕まで後退する。

午後10時30分頃、指揮を執っていた中村少将が敵弾を受けて負傷、
その後同隊は翌27日午前2時頃まで激戦を繰り広げるも
突破は不可能と判断され、退却となった。

この攻撃は敵陣突破に失敗し、この時点での第三軍の損害は約7千名に達した。
しかし守るロシア側も一時二龍山堡塁の守備兵は数名になり、
松寿山第4砲台も予備兵力が10名になるなど、
もう少しで突破を許してしまうような状況に追い込まれており、
ロシア側にも白襷隊の勇敢さに驚嘆する記述が多く残されている。

203高地への主攻変更

11月27日未明、乃木は当初の攻撃計画が頓挫したことで
攻撃目標を要塞正面から203高地に変更することを考え、
敵味方を兵員消耗戦に持ち込む決心をした。
第三軍参謀の白井二郎少佐は第1師団203高地攻撃を
打診したところ快諾を得た]

満州軍司令部より派遣されていた福島安正少将は
この意見に反対を述べ、あくまでも要塞東北方面攻撃を主張したが、
乃木の判断で203高地への本格的な攻撃が決定される。

午前10時、軍命令で東北方面攻撃の一時中止と第1師団
中核とした203高地攻撃を行うことが下達、
午後5時には大本営と満州軍総司令部にそのような主旨の報告を行う。
指示を受けた攻城砲兵司令部は直ちに砲撃を203高地に変更し、
28センチ榴弾砲全砲をもって砲撃を開始した。
砲兵第2旅団は203高地攻撃に際して
妨害攻撃をするであろう敵の各砲台への砲撃を開始した。

対するロシア軍は203高地に500余名、
その北東の老虎溝山(標高177m)に千名の兵を配し、万全の体制をとっていた。

203高地攻撃

27日午後6時、28センチ榴弾砲の事前射撃により
203高地の中腹散兵壕を破壊、午後6時20分、
第1師団右翼隊(後備歩兵第1旅団)、中央隊(歩兵第1旅団)が突撃を開始した。
敵砲台は攻城砲兵及び師団砲兵が制圧し、右翼隊は鉄条網を排除しつつ前進し、
一部は203高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取した。
更に前進を続けるも周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被る。

中央隊は老虎溝山に突撃を開始、山頂散兵壕の一部を奪うが
夜になって敵の逆襲により撤退した。

翌28日、第1師団は再び攻撃を開始した。
右翼隊は後備歩兵第38連隊の増援を受け8時頃突撃を開始、
第2線散兵壕を奪うが死傷者が続出し現在地の確保で精一杯になる。
友安旅団長は後備歩兵第16連隊を増援に回し、
10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧した。
しかし直ぐ様ロシア軍の逆襲にあい山頂を奪還される。
それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、
正午頃には西部山頂の1部を奪回し敵の逆襲に備えた。

一方の中央隊は203高地東北部に対する攻撃を意図し攻撃準備をしていたが、
その間敵の攻撃を受けて歩兵第1連隊長の寺田錫類大佐が重傷を負い、
まもなく戦死する。
それでも旅団長馬場命英少将自ら指揮を取り突撃を繰り返すも効果なく、
一時は東北部山頂を占領するも、敵に奪還された。

11月29日午前2時、第1師団より現在の師団兵力では
203高地攻略は難しい旨の連絡が軍司令部に届く、
これを受けて乃木は予備の第7師団の投入を決意、
午前3時に麾下の各部隊と満州軍総司令部、大本営にその旨を連絡した。
この直後、満州軍より児玉総参謀長が旅順に赴く旨の連絡が入る。

午前7時、第7師団長大迫尚敏中将が高崎山の第1師団司令部に到着し、
203高地攻撃の指揮権を継承した。
大迫は第7師団と第1師団の残存兵力で攻撃部署を決める。

  • 203高地攻撃:友安治延(後備歩兵第1旅団長)少将指揮
    • 歩兵第1連隊1.3大隊、歩兵第26連隊2大隊、歩兵第28連隊、後備歩兵第15連隊1.3大隊、後備歩兵第16連隊、後備歩兵第38連隊2大隊、工兵1個中隊
  • 老虎溝山攻撃隊:吉田清一(第7師団歩兵第13旅団長)少将指揮
    • 歩兵第1連隊2大隊、歩兵第15連隊2大隊、歩兵第25連隊3大隊、歩兵第26連隊、工兵1個大隊半
  • 砲兵隊:兵頭雅誉(野戦砲兵第1連隊長)大佐指揮
    • 野戦砲兵第1連隊、野戦砲兵第7連隊、野戦重砲兵第1連隊1大隊。
30日午前6時、攻城砲兵は砲撃を開始、まず歩兵第28連隊
山頂東北部に突入。第三攻撃陣地まで前進するが敵の猛射で釘付けにされる。
西南山頂は後備歩兵第15連隊、16連隊が向かうが
これも側射を受けて損害を被り攻撃を断念する。

老虎溝山攻撃は午前10時より開始され、
午後1時まで幾度となく波状攻撃を繰り返すが悉く撃退される。

午後4時50分、第1師団長より攻撃再開の命が下る。
6時40分に東北部山頂に突入し、接戦のすえ一部占領に成功。
その後一進一退の攻防で占領地の一角を死守することに成功した。
午後5時には203高地の完全占領の報が届き、
大本営や満州軍に伝わるが誤報で、翌12月1日午前2時には敵に奪還される。

夜半、友安少将は増援の二個中隊を率いて前線に向かう旨、
各部隊に伝令を出すが、その任務を帯びていた
副官の乃木保典少尉(乃木希典大将の次男)は銃弾を受けて戦死する。

12月1日~9日
12月1日、死傷者の収容と態勢を整えるため、4日まで攻撃を延期する。
 正午、満州軍司令部から旅順へ向かった児玉満州軍総参謀長が到着。
その途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉
大山満州軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8師団
歩兵第17連隊を南下させるように要請した。

12月1日から3日間を攻撃準備に充て、
第3軍は攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った。

12月4日早朝から203高地に攻撃を開始し、5日9時過ぎより、
第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に
第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を
攻撃し10時過ぎには制圧した。

12月5日13時45分頃より態勢を整え東北堡塁へ攻撃を開始し、
22時にはロシア軍は撤退し203高地を完全に占領した。
翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、
攻撃隊は900名程に激減していた。


12月5日の203高地陥落後、同地に設けられた観測所を利用し
日本側は湾内の旅順艦隊残余に砲撃を開始する。
各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され、
要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていたが、
日本側はこれらに対しても砲弾を送り込み、旅順艦隊艦艇は次々と被弾した。
日本側の28センチ榴弾砲砲弾の多くは戦艦の艦底を貫けず、
多くの艦艇は自沈処理がなされた。

5日に戦艦ポルターヴァが後部弾火薬庫が誘爆着底、
翌日には戦艦レトヴィザンも着底し、

8日にペレスヴェートポベーダの両戦艦も防護巡洋艦パラーダと共に着底した。

9日には装甲巡洋艦バヤーンが同様の運命をたどった。
大型艦で生き残ったのはセヴァストーポリのみとなり、
8日の深夜に港外に脱出した。

この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。
ロシア軍も戦死5,380名、負傷者は12,000名近くに達した。
両軍がこの攻防に兵力を注ぎ込み大きく消耗した。
203高地からはロシア太平洋艦隊のほぼ全滅が確認され、
児玉は12月7日に満州軍司令部へ戻った。

脱出して旅順港外にいた戦艦セヴァストポリと随伴艦艇に対しては、
日本海軍は30隻の水雷艇で攻撃し、12月15日の深夜の攻撃で同艦は着底し、
航行不能となった。



1905年1月22日ロシア第一革命
1905年2月21日から3月10日
奉天会戦

1905年5月27日 - 28日
日本海海戦








1868年5月26日生まれ。

1891年4月27日にニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港した。
以降5月19日まで日本に滞在した。
5月11日、大津に入り、琵琶湖や唐崎神社を見学した。
しかし同日、大津から京都へ戻る際、
滋賀県警察部所属の警察官津田三蔵巡査
人力車に乗っていたニコライ皇太子にサーベルで斬りかかり、
彼の右耳上部を負傷させた(大津事件

この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになり、
ことあるごとに日本人を「」と呼ぶようになる。
ロシア首相セルゲイ・ヴィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が
後の日露戦争を招いたと分析している。



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