がんばれ、頑張ればまた強くなれる。

そういう定型の応対パターンがある。
大抵は自分の成功談や誰かの成功体験を話して、
相談に乗ってあげた人が良い気分になって帰る為に行われる。
傷ついたり悩んでいる人のためにならない。
なぜかって云えば、その弱った人の話を聴こうとしないからだ。

そういう弱った時に「私だけがあなたの味方だ」とか
「援助してあげる」のは私だけだなんていう人がいる。
そして説得が上手くいかなくなると、「不幸になるぞ!」なんて脅しを掛ける。
それはブラック企業での「短句のリピート」や宗教や意表な商法の場合もある。
洗脳だね。

そういう洗脳でないとしても、
日本人の心の中には、或いは常識として
こういうことがあるんだと強い主張をする人がいる。

私は20~30年前からそういう人には、それは良くないって言ってきた。
そうすると、じゃあどうすればいいのかと詰問される。
ただ聞いてあげれば良いといってきた。
ただ弱音や愚痴を聞くだけだ。

それが全ての人にとって言い訳ではない。
それをする事で荷が軽くなる人に対してはそれをすれば良い。
そういうと、じゃあ誰なんだ?といわれる。
それは同じ個人でも時期や情況によって違う。

そういう彼らに私がどうしてたか?と問い直すと黙り込む。
私は完璧じゃないし、いつも正しいわけではないけど
彼らに思い当たるところがあれば、沈黙が帰ってきた。

私は正直、それを方程式として良いあわせない。
ただ、相手に共感するときがその時何じゃないかと思うんだ。

相手の気持ちを推し量る。
「私だったら、こうするよ!」
それが間違いだ。

「あなたなら、そう考えるよね」
ということがわかるかどうかだ。
相手からあなたの話を聞かせて欲しいといわれたなら
「私なら、~~です」という話になる。
だって、性別や年齢や能力の違いがあるのに、
家や資産に違いがあるのに、どうやって「私の話」を
取り入れるのか?ということなんだ。
普遍性や抽象的な考え方の取り入れ方を
そんな時に取り入れると大概上手くいかない。

先日、ラジオで云ってて大変共感したことがあった。
悲しい出来事があった後、いかにそこから脱出したか、
成功を得たか聞き手は知らず知らずの間に行ってしまう。

「挫折を乗り越える」
というストーリーを勝手に想像して、押し付けている。
私は多くの人に対して以下のように感じる。

イジメや事故や災害、そういう時に負った心の傷は癒えない。
ただそれを忘れようとして、普段は表面に出さないように生きているだけだ。
自分は傷が癒えたと言って安心したいだけだ。

いや、全員がそうだとは思わないけど多くの時にそう感じてしまう。
弱虫と言われても良いし、根性無しと言われてもいい、
そもそれも弱ってる俺に容赦なく罵詈雑言を浴びせかけるお前はなんなんだ?
不倫でも他国のことにしても罵倒してる人が目立つこの世の中だけど、
「自分が認められたい」という思いが、幼児のようだと思う。

昨日漫画の「ナルト」を思い出して読んだり見てたりしてた。
大概の悪党の行動の原理って、上記の「俺を認めろ」という動機が強かった。
そう、それはナルトだけじゃなくて世の中あまねくところにある。

漫画家ONEのモブサイコ100とワンパンマンはその辺りのメッセージ性が非常にハッキリしている。
心が子供のまま身体が成長してしまった子供達を強く描いている。
私達はそんな彼らがいう屁理屈や常識と言いながら
使っている汚い言葉に耳を貸さなくて良い。
そんな人達には一切相手にされず無視されている方が圧倒的に良い。
そういう奴らは嫌がらせも大好きなんだし。

見かけは大人だが心子供の人達しか周りにいないなら
ボッチの方が圧倒的に良い。




弱音や愚痴を聞くのは誰でも出来る事じゃない。
自分まで鬱になってしまうことも良くある。
聞き苦しい。
誰もがそんな事を聞かなくてもいいと思うんだ。
でも、もし共感が出来る時があるならすればいいと私は思う。
私だって全方位で何時でもそれが出来るわけじゃない。
ひたすら他人の悪口を言ってるような人の場合などね。
意思疎通の出来る誰かとか、信頼関係が元々あるような場合でないとね。

今日は3月11日で日本大震災の発生した日だ。
7年経って、もう思い出したくない人も大勢いる。
テレビやラジオがそればかりだと不満をいう人もいる。

原発事故は終わっていない。
もう7年も経っているのに、未だに殆ど何も復旧にいたっていない。
廃炉の計画、事故終息までの計画が30年か40年というところから見れば、
まだ7年しか経っていない。
セシウム137の半減期は約30年。
廃炉関係の工事は続く。

家族を失った人の心の傷が癒えない人はこれからもずっとそうなんだ。
イジメ自殺の話を想うと、ご両親の話を聞いてると何も掛ける言葉が出ない。
ただ、聞くだけだ。
それは事故でも病気でも同じで、子供部屋をそのままにしていると言う人は
まさにその傷が目に見える形なんだ。
時間が止まってしまう、そういうことがあるんだ。
目に見えるものがない人でも、それを抱えている人は大勢いる。

昨日アニメ「この世界の片隅に」についてツイートしたら沢山のエンゲージメントを頂いた。
すずさんみたいに外から眺めてわかるようなことは案外少ない。



上辺の綺麗ごとを言って収めたい人と云うのは、
そういうことを背負い込むことから逃げたいというのは本当の姿に見える。
そして感受性の欠如。
そしてもう終わったとして継続的にそれに対峙していかないから、
同じ様な問題が繰り返される。

「私が」そんな悲しいことを経験していないからと言って、
忘れてはいけないことが沢山ある。
見ないで過ごそうとして失ってしまう何かの形成段階がある(スポイルされてしまう)。
それは問題が起きてからじゃないとわからないことだと思うんだ。
だから、私自身はそれを忘れないようにしたい。

2013年5月に合宿免許でいわきの教習所へ行き、2週間弱滞在してた。
とてもいい町だった。
下のレイヤーを書きながらいわきや教習で走った景色を思い出していた。
そして、テレビやラジオで聞き覚えるある地名や神社を追加していった。
生活に余裕が出来たらバイクで東北ツーリングをしたいな。





挫折を乗り越える、という言葉がある。
そう人がいても良いと思う。
でも、挫折を抱えて生きていく、そういう生き方もある。
おれはその後者だよ。

満たされない思いを抱えながら、
それでも折れないならそれが強いということだよ。
それを抱えながらも生きてることもまた、乗り越えて行くということだ。

痩せ我慢しなくていい
強がって明るいことを言わなくてもいい
無理して立ち上がらなくてもいい
泣きたいときは泣けばいい

私も一緒に泣こう
辛い気持ちを抱えていても
それでも生きているなら
あなたは強い人なんだよ



歳を重ねて生きていくということは積み重ねていくばかりではない。
失いながらそれでも生きていくことなのじゃないか。
ようやくそんな事がわかってきて、
「足ることを知る」
という言葉の意味合いが少し違って聴こえてくる。