前にも同じ様な事を書いてるのだけど、ちょっと溜まってしまったので書きました。

私にとって特別な映画の台詞から

※ Rutger Hauer 

 I've seen things you people wouldn't believe

Attack ships on fire off the shoulder of Orion

I've watched c-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate

All those moments will be lost

in time


like tears


in the rain



Time to die




君のような普通の人間達には信じられないような光景を見て来た

オリオンの肩の星域で燃え落ちる戦艦

タンホイザーゲートのブラックホールの底から湧き上がる光の渦

やがて激しい怒りや怖れや悲しみや歓喜の光景も

荘厳な景色の思い出も消え去っていく


雨の中、頬をつたう


涙のように



この映画を初めて見るならディレクターズカット版はお勧めしない。配給会社が勝手に付け足した冒頭の独り言やエンディングシーンがある、最初のバージョンが良い。この映画はシナリオから裏方俳優監督に至るまでスタッフの勝手な思い込みとアドリブで全体が出来ており、その冒頭とエンディングシーンに関しても、制作スタッフと同様に配給会社の余計な事まで全部入れて一個の奇跡の作品となっている。



この数日間、ずっともやもや考えていた。
色々考えていたらこの台詞に行き当たった。

それは16歳で初めてこの映画を並行輸入のVHSで見た時から度々辿り着く。

ブログなんて書いてて承認欲求が無いなんて事は無い。

追認数を求めてmixiやツイッターやFBはやらない。
今更、この俺を分かって欲しいなんて気持ちは少ない。
そうは言っても自己表現や情報発信には必ず付きまとう問題です。
このブログでは人気記事というのを公開してますが、
日記の部分に関しては閲覧数が少ない。
 だから私が追認されているかといえば、幸いそうじゃ無いと言える。

 個人的な共感はごく少なくて良いと思ってます。
私個人が認識出来る人数には限りがある。
資金投下して生活の糧を稼ぎ出して、プライバシーとセキュリティを
維持している有名人とインターネットの中に於けるアカウントには深い溝がある。
それぞれ良い面と悪い面がある。

個人の部分を大切にしたいならブログでもSNSでも鍵をかけてしまえばいい。
ただ、それだと制限が大きい。
ブログだとわりと双方向メディアになって無いので楽です。
SNSだとどうしても繋がってる相手のログに気を削がれる。
繰り返し書いて来てる事だけど、
私個人はSNSではなるべく小さくまとまりたいと思っています。
器量の少ない人間なんですから。
それは中学生みたいな成人がいう徳があるとか器の大きい人間でなければという
アホなスローガンに対するアンチテーゼでもあるんですけどね。 

ツイッターの場合はだんちょうアカウントではなるべくフォローバックしたい意向で始めたんですけど、
ちょっとTLを追うのがきつくなって来てます。
このブログと関係無くフォロワー稼ぎをしたいだけなんじゃ無いかとかを
感じると、ブログとセットのアカウントですからフォローバックは無理かと思います。

 全くエンゲージメントが無いとフォローバックするのは難しいですね。

個人アカウントに関してフォローしてくれる方が時々いらしゃいます。
発言や会話を見て下さってそうしていただけてるのかと思います。
ただ、期待を持たせても申し訳無いのですが個人アカウントに関しては消極的にやっています。
だから、報告用で作っただんちょうアカウントでの発言に移行できる部分は
切り替えていった方が良いのだろうか、と考え始めています。
忍耐強く長期間フォローして下さっている方やエンゲージメントのある方は
個人アカウントでも繋がる努力はします。 約束は出来ませんが。 

私なんて50前のオッチャンなんですよ。
性を売ってないし金持ちでもない。普通に考えて誰も興味無いだろ。

結局、SNSはリアルの延長でしか無い。
こっち側のリアルの延長だという認識を持って頂いてると
感じたならば、前向きに考えて行きたいと思うんです。
やっぱり、無視されてれば気分が悪いだろうし、フォローされれば嬉しい。 

最近、他の方の話を見てても、そのリアルの延長だという枠を飛び越えて
尊大な物言い、無礼な言動に悩まされるといった事は多い。
このモニターの向こうにいる誰かと対等な気分になってしまうのがインターネットです。
人間を記号と して扱う事でそうなる。
簡単に、分かりやすく、というのは情報の劣化が大きい方がいい。
それはマスメディアの手法です。
そういう事も分からないレベルの若さや少ない知識や思慮の浅さ、
敢えて厳しい言い方をすれば50前のオッチャンは子供を相手にしないのが普通なのですよ。

ただ、親子や師弟などの関係では話は違う。
私自身、未だに知識が足りないし知恵も足りない。
特異な能力が無く、ただ少し平均点より高いと思う事は
1つのことをゆっくりじっくり考えてみることだけです。
だから何を教えられるということもさほど無いけど
求める何かをここに見出してるなら、もっと努力しようとは思います。


人間、どんなにビッグになろうとも
無くなってしまえば殆どと何も残らない。

10万人のフォロワーがいようとも、実際はその人達と繋がってるかといえば
希薄になってしまっているんじゃないかと思います。
そして、老いてその後亡くなってしまえば、
記憶を持ってる世代が同様にいなくなると歴史に
名を残す数人以外には誰も知らない群れの中の一個体だったとなる。
江戸時代の有名人な歌舞伎役者や人気力士の誰の人生をあなたは知っていますか?

人間は個人の生活の範囲内に於ける個人の幸せの実現に注力したほうがいい。
そう思う。
インターネットは、普通の人間を教えげてくれるような錯覚を抱いてる人が多い様に感じる。
ネットをPCの中にあるサーバー(ソフトやアプリケーションのたぐい)と見れれば、
それが幻想に過ぎないと気がつくかもしれない。
実際問題、世界に情報を発信するだなんて言って、70億人に周知する様なパワーは現在のネットには無い。

誤解が逆になにか閃いてイノベーションを創造するかもしれないから、
全否定は出来んだろうけどね。



あと後数年で親しい先輩の亡くなった年齢になる。
アーキペラゴのゴント島に無名のまじない師がいた。
彼の名はOgion。

あのSparrowhawkの師匠がOgionだ。
そしてOgionにも師匠がいた。
同じように私にもそういう人はいた。
20代の始めにバイク便の会社に所属し、長く付き合っていた人だった。
彼も私も冒頭の映画が大好きで毎年毎年、年に数度はその映画をビデオで観て語っていました。

時々思い返す、
最後に送った言葉があれで良かったんだろうか?

私にとって彼は偉大な師匠であり、同時に駄目な人で反面教師だった。
そして僕らの仲間内の誰にとってもそんな存在だった。

あんなに濃かった彼の事を今、誰も知らない。
でも俺は忘れない。

親や教師に言われる単純で薄っぺらな立派な人間になろうと
強迫観念と劣等感に苛まれて人を攻撃したり
虚構をまとう事を追い求める人が
インターネットでもリアル社会でも沢山いる。

幼児が親に言われたレベルで60超えても
人と仲良くしなければならない。だから
仲良く出来ないXXとは話をするな、仲間ハズレにしてやるぞ、
こんな事をいう輩がいる。
言ってる事が矛盾してる。
仲良くするという奴が仲間外れという恐怖で縛ろうというのだ。
たいがい頭がおかしい。

人には個性があって好きも嫌いもある。
友達なんざ100人いたら、毎日全員と楽しいお喋りなんて出来やしない。
100人の動向を逐一チェックしてその一人一人に
適当な慰めや笑い話や共感の共有化をするなら
まともな生産活動は出来ない。
残念な話だが、喜怒哀楽の最も単純な事しか共有出来ない。
大概はペットや怒りだろう。
そんな繋がりなんて、繋がりでも関わりでも無い。

友達なんて数人いればいいのさ。
気の合う人も居れば合わない人も居る。
会社なんて生産目的でトラブルを起こさずコミュニケーションが出来る
最低限の付き合いだけでも良いのだ。友達作りの社交の場ではない。
所属部署の全員と家族ぐるみの付き合いがなければならない、
という事はない。田舎だとか農業で地域に根付く人なら
そういう事があっても良いだろうけどさ。

最低限の親しい友達や家族と繋がる事が大切だと思って私は生きている。
ここまで生きてきて結局思うのは、同年代以外に友達を作るなんんて私には無理だな。
おそらくそれは多くの人で同じだろう。

ツイッターにしろブログにしろ、アクセス解析をすると最近10代の人も
私の発言を見ている。
それでこんなに赤裸々に書いて良いのか迷ったりしている。
肯定する考え方としては高橋源一郎さんがラジオで
独白しているのを聞いて、私もこれで良いのだろうと思っている。
彼の一人称は「僕」だ。
それは少年期に多用する一人称だけど、
世代や地域によってはワシだったりということもある。
彼の世代は「僕」だと思う。
あの世代の人達もその一人称を使う事に幼さが篭ることについての
逡巡をずっと聞いてきた。
だからおそらく、私の独白は若い世代ではちょっと見え方が
違うんじゃないかと思う。
人によっちゃ両親より私の方が年上だ。担任教師や学年主任や上司よりもね。
しかし誰かが望む私にはなれない。
私は私でしかありえない。

支持してくれる人が多いか少ないかは重要じゃない。
芸術家や思想家が生きてる間には異端であっても
後の世に再評価される事がある。
それを信念や理想というのか狂信だというかは分からないが、
自分が信ずるならば、それが本質ならばそれに従う事だろう。

私には、私にとって特別だった先輩みたいになるという事は1つの意味がある事だ。
私は後何年生きるだろうか。
明日、交通事故で死ぬかもしれない。
明後日、不治の病が明らかになるかもしれない。

その時が来るまで、もっと生きたいと強く思い続けていたい。
あのレプリカント達の様に。


参考リンク
コスモラボラトリー 宇宙総合まとめ
サイトオリオン座の右肩、ペテルギウスの最後


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内緒の引用元から轟沈する図
「俺は大人じゃなくてオトコなんだよ」のアレ


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内緒の拾い物。私のCビームのイメージ