連休はじめの水曜は疲れがでて寝込んでました。
木曜もそんな事になりそうなので午後遅くから何かしようとPCの前に座りました。
最近やってたマイマップスを開いてちょっと、運送屋的な視点で歴史考察してみようなんて始めました。
金土日、それだけで終わっちゃいました(つД`)

私は持論があります。
戦争は経済である。

まあ、今更なことですけどねw;
帝国日本軍は物流・兵站が極端に弱かった。軍人は槍侍ばかりで目先の武功を追い求め、
兵站を馬鹿にしきって無用に補給線をのばし自滅していく。

戦国時代、どんな武将が強かったのか?
それは自国の政治運営に優れていることが絶対条件であった。



今の会社組織や政府組織と違っていて、しかし同じなのことは人心支配という事です。
それは住民がお殿様大好きってことじゃない。
現代的に考えれば、関西の暴力団の抗争が最近話題になる事も多いけど、
地域ごとの村々を束ねる「組長」的な人々から支持されて家臣団を形成できるか。
それは農民兵をかき集めることに繋がるし、経済基盤を確保することでもある。

信長の楽市楽座なんてのは経済政策としては大きな出来事でしたね。
物流を円滑にして自国の経済を潤した。
武田信玄は鉱山開発が上手かったけど、山の中の国だから経済封鎖されてしまうと非常にいたい。
今川と北条に南側を押さえられて塩が入ってこなくなる。
上杉謙信は抗争はしていたけど、塩を売りつけ一儲けする。
新潟津(港)は良港で発展していくが、
そこの支配というのが謙信の亡き後の跡目争いでは重要な戦略拠点になった。

領国経営は兵力という数字になって物語の中に現れる。
無論、武力はそれだけではない。
今川義元が討ち取られた桶狭間の戦いなどは武勇なのかな?
と現状では考えていますよ。





秀吉以降となると、人たらし秀吉というくらいで和議密約と云ったように
多数派工作の時代に成ります。大阪の陣では徳川サイドは一回目は
戦では落とせなかった。その後の経済的な締め付けと
事前の土木工事で大阪城を裸にした。

人間というのは認識できる人間の数量に限界がある。
だから言ったこともない地域で、昔の地図で何処だかもよく分らない土地の
何とかという田舎者が来たって、その場は覚えていても直ぐに忘れてしまう。

この連休はwikiをずっと読んでいたわけです。
そこで今更この年齢になってようやく分ったんですが、
秀吉が拘った官位とはなんだったかという事です。

何処の誰だか名前は忘れても、何とか会社の課長だとか部長だといわれれば、
なんとなくどういう行動指針を持っているとか背景を想像できます。
武将の名前を覚えようと頑張っても、これが親兄弟が多過ぎて中々覚えきれない。
地頭職にあった家系とか書かれていると、なんとなく従えている人数とか
昔の人は想像したんだろうと思います。



中央集権というのはそういう風に官位で分類をする。
そうするしかないんだ。
忠臣蔵のラスボスの吉良上野介ですが、そういう中央集権政権のなかで
爵位や典礼に詳しいという事だけでなんで武士として一国の領主をぞんざいに
扱えたか。
そうした知識こそ平和な時代の武家社会では重要だったかということです。
そして跡継ぎが無くお取り潰しとなる寸前の米沢藩を養子縁組で救っている。
それが可能な人脈の中になった人だった。

港湾関係でも市政でも県政でも国政でも大会社でも、
家系や既得権益というのはあって、それは時に弊害をもたらす。
横浜市の教育委員会が福島から非難している人の子供がイジメにあった時に、
いじめは無いと言い張った。
昔の人間関係で横浜市の教育委員会のお偉方の教師家系の運転手のお坊ちゃまがいた。
発達障害があって仕事の出来ない奴だった。彼の生い立ちとか言動を考えるに、
横浜市の教育委員会というのは公正な組織ではない。
市政や経済人の家系の有力者の誰かの子供が絡んでいたら、
あのように馬鹿な事を言い出すというのは容易に想像できる。

この春の高校生の雪崩遭難事故でも同じようなことを感じた。
ああした行事は定例でやっているのであって、
本当に登山が大好きな誰かが引率していなかった。
出世街道や役職の持ち回りで登山なんて好きでもなんでもない人が、
昔の成功者の足跡を辿ってその役職についているだけなんじゃないかな?
そんな疑念が直ぐに湧いてきた。
関係者しかわからないことだからこんな事を言っていることは
誹謗中傷になってしまう可能性があって、黙っていた方が我が身の為なんですがね。




レイヤーを作成しながら色々なものを読んでいました。
ウィキが圧倒的に多かったんですが、ブログやホームページで
現地を訪れて記事を書き溜めている人のいくつかも非常に面白かった。
余裕が出来たなら私もツーリングがてら、そういう取材をやって見たいものですよ。



ウィキペディアに載ってる文章と云うのは基本的にコピー&ペーストだ。
既存の文献を丸写ししている場合も良くなる。
その文章的に話し言葉を書いてあるような場合が困る。
歴史関係では読点が少ない文章が多いんですよね。
郷土史研究家のコピー元の文章がそういうものが多いのかもしれない。

頭に史実を突っ込んでいくのに地域が思い浮かばないというのは
マップのレイヤー作成で補える。
時系列は手書きでノートに書くかHTMLテキストを作成するかがいいだろうけど、
結局、ブログの非公開記事にウィキをコピーしてテーブルに貼り付けていきました。
なんか、中高生の頃に好きな勉強をしているようでしたよ。
難解な句読点で繋がった長い一文を意味を考えながら読むのは中々骨が折れましたね。
コピーで作った記事は公開しません。
本当にコピーの継ぎはぎでしかないのでお見せするようなものじゃないんだ。



戊辰戦争を追いかけてみた。
会津と東北の戦闘についてはノートに取りながら頭の中は整理したんですが、
レイヤー作成までは手が回りませんでした。
ここにリンクしているそれぞれのレイヤーは相互に同じものを流用したりしてます。
全部一個にしてしまうとネット回線の使用量が多くなって編集も閲覧も通信時間が多くなります。
局面や時期で独立させたりスクリーンショットにとって画像加工していくと、
もっと分りやすくなると思うんですよね。
そんな事を考えつつ、改修作業は今後も続くと思います。




明治維新の延長線上に今の政治がある。
太平洋戦争の敗戦があったにも係わらず基本的なことは変っていない。
この連休中に安倍首相が憲法改正を目指すと発表した。
私はそれ自体は反対じゃないのだけど、明治以降の歴史を
ここまで書いてきたような根っこの所から考えてみると非常に複雑な思いがあります。

長岡の人や新潟津の人は「新発田藩には詠めはやらない」というようなことを云っていたらしい。
会津の山口県嫌いは現在進行形で生きている。
311の後の萩市と会津の姉妹都市の話が持ち上がった時、
萩はもう120年経ったんだから、会津はまだ120年しか経っていない、
そのような話になって実現しなかったそうです。

現在の世界で起こっている紛争や朝鮮半島や中国のことを思うと
人とはそういうものなのです。なんかヘイトスピーチで目がくらんでしまっているけど、
私自身も同じなんだと思いました。

被害の少なかった新発田サイドの私はあまり気にもしていないけど
長岡や会津はそうじゃない。東北でも列藩同盟を裏切ったとかなんとか
遺恨が残ってるそうですよ。

だから、現在の改憲だとか言ってるサイドにも反対しているサイドにも
相応の言い分があって、それを理解する必要はある。
そして、なんせサンフランシスコ条約がなんだったか、
それを沢山の人が理解しない事には改憲の議論は有意義にならずに
罵詈雑言の応酬だけになってしまう。

記号やテンプレートで分ったような話をする人が非常に多い。
その殆どは感情論だ。
今日、ワイドナショーでゲス乙女のボーカルが出てて、
発言の切り取りがどうこうって話が出ていた。
キャッチフレーズ、電車の吊り広告レベルの言葉というのが
世間を席巻している。
それは人が沢山の情報を処理できないから、記号やテンプレートだけで
思考しようという行動を取るという事を意味している。

長い長い文章を読んだり、哲学して進路を決めようというのは中々骨がれる。
しかし、それをやらないならば烏合の衆の一人、下衆の一人でしかない。
映画の中のモブシーンの中の人影、ガヤ、それがやらない人のポジションだ。

ま、こんな事を書いていても私が世の中の表舞台に立つことなんてない。
だから結局私もモブの一人ではあるんだけど、
そのうち台詞を一個くらいはいえる脇役位には成りたいものです。

第一次世界大戦で日本は大いに利益を上げ工業化を一気に進めて行く。
その後世界恐慌で景気は一気に悪くなる。
戦争で豊かになった日本帝国の国民が戦争を望んだ。
経済人や新聞が武勇を掻き立て国民が煽動されて政治を推し進めた。
軍人が独走していく下地を支えたのは国民自身だった。
政治は翼賛政治の体制になっていく。
今の日本はどうだろうか。

冒頭に書いたように40代に入って体がシンドイことが増えて休みは寝て過ごしたいことが増えた。
覚せい剤使用する良い年のオッサンを見ていると、そんな事も誘惑の原因なんじゃないかなと思いますよ。
謙信も信長も数え49歳で無くなった様です。
来月、実年齢でそろそろ49歳になります。

色々読んでて神妙になったゴールデンウィークでした。

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江戸時代までの新潟の景色っぽいところをGoogleアースで探してみる。

インド東岸、チリカ湖

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新発田市の姉妹都市のアメリカのガルベストン市ととの周辺。
ミシシッピ川周辺もなかなか良い感じに縄文・弥生時代から鎌倉時代の新潟の潟を想起させてくれます。

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ミシシッピー川の西側から南を望む。

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弥生時代から鎌倉時代の様子を想像してみる。

中国 越

wiki 抜粋 
(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、
春秋時代中国浙江省の辺りにあった国。
首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。
後に漢民族形成の中核となった
黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、
長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。
など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、
稲作や銅の生成で栄えた。
滅ぼされた越の国の人が倭の国(野蛮、JAPAN)にやってきて、
稲作のために定住したのが越前、越中、越後なんてことを言う人もいるようですよ。

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渡来人の家系といわれる坂上田村麻呂征夷大将軍ですが、
蝦夷討伐というのは武力制圧をしたというのは間違った考えのようです。
何度も蝦夷地討伐を朝廷はやっているのですが、ことごとく失敗している。
財政が逼迫しているのに平城京に遷都しようとかしている。
そんな時に坂上田村麻呂は遠征に出かける。
当時の蝦夷というのは北関東くらいも蝦夷地だった。
要するに、狩猟採集民族の文化の地域が蝦夷地。

武力だと拮抗していたそうです。
どうやって蝦夷を懐柔していくかというと、農民兵を大量に連れて行った。
そして、戦争をしないで農地開拓をしていった。
狩猟採集民族は土地の所有と云う発想は農耕民族とはまるで違う。
畑や田んぼを作っているのがどういう事をやっているのか理解できない。
戦争をする気配もないから蝦夷は朝廷軍をほったらかしにする。
しかし、その作物の物々交換を通して農耕を知る。
栗の栽培というのは三内丸山遺跡の研究でも分っていて、
蝦夷が農耕を全く知らなかったわけじゃない。
だから、収穫物を通して利益のあることを理解し、
懐柔されていったという説を私は信じています。
アテルイの勇猛さの話が先行しがちなんですけど、
東北を席巻したのは農業だったんじゃないかなと思いますよ。