昨日こんな落書きをしていました。せっかくなので弟と友人に我が郷里の説明をしてました。
故郷の新発田について時々調べています。中高年になって突然郷土史研究をを始める人が居ますけど、
私もその口です(笑

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サイト 参考資料
新潟県行政サイト   蒲原(かんばら)の意味を知っていますか?  
新潟県行政サイト 新発田地域に新田開発のあゆみ(排水偏)
ぬしと朝寝がしてみたい 甲信越の諸藩
埋もれた古城
北陸地方の城
土木学会新潟会
桜で彩られた加治川治水の歴史を伝える
阿賀野川え~とこだ流域通信
新潟の“潟”は、巨大砂丘が生み出した!?
新潟市Webサイト
新潟史の歴史
古事記をそのまま読む 2016.03.12(sat)[05] 寛治三年七月越後絵
水土の礎
加治川流域を含む蒲原平野の発展の歴史は
土地改良の歴史そのもの

阿賀野川河川事務所
越後平野のくらし
農林水産省 PDF
加治川地区農水利
聖籠町役場 PDF
新潟東港紹介パンフレット
新潟中心街商業組合公式サイト
絵図が語る古町誕生
寺泊ウォッチング
寺泊からの12月のスナップ写真(2010)
活学問~生涯、学習
新潟島を感じる
 
 

今の時代、インターネットに色んな文章がアップロードされています。
特にウィキペディアには資料を丸写ししているテキストも多いですね。
それが良い事か悪いことか一考の余地があるでしょうが、ネットのコピーに関しては
利権者の申し立てが基本ですので苦情があって削除されない限り、
そして商用利用に転用をしなければだいたい問題ないので私もそういう姿勢でいます。

上記のマイマップのレイヤーはテーブル内の資料と他から推察してレイヤーを描いています。
多分、このまま改良を加えていく事になるんじゃないかな。
コピーに関してはご自由にしてください。
その誰かの描いたレイヤーが閲覧できるようになったら私もコピーいたしますのでw

本来のインターネットの礎の目的は論文を自由に閲覧できるようにする事だった。
印刷する事無く、自分のデスクから他の研究者の論文を読むことを可能にしようという
共通規格の設計から初めっている。
郷土史研究などでは古文書の収拾と実地調査という事が大切だ。
本当は自宅は蔵書で溢れ、図書館に通い地元を訪れる。
科学分野でも同じような事で、20世紀までは専門家という存在はやっぱり権威があったと思います。
この時代でもそれは大切なんだけど、ネットを介してわりと専門家の浅いところには近づける。
論文なっていうと何か大げさなような気がするけど、だいたいの学生や学会だと
コピーアンドペーストの引用引用ばかりで実験したとかいうのも虚構だったりする事もある。
それっぽいことを書けば良いという事になっている。
定期的に研究成果が無くても論文を提出しなければならない、そういうシステムはいかがなものでしょうかね。


さて、新潟県の話です。

大河ドラマなんて見てると先が知りたくなってネットを検索することが良くある。
だいたいはウィキペディアを読むことになってしまうんだ。
ウィキペディアは文章が書いてあって凄く便利なんだけど、地名が出てくると
今一つ分らない。
なので上記の様なレイヤーを作りました。
GoogleMapsのレイヤーはそういう時大変便利です。
今回、古い地図を探してサイトを検索し捲くったんですが、
やっぱりどこも見せ方に苦労してますね。
郷土史研究の論文的なものを書いてる人たちは今後、どんどんGoogleMapsを活用したら良いでしょう。
印刷して色を塗っても良いんだし。

昨年やってたNHK大河ドラマ「真田丸」でも、どうしてその進軍ルートなんだとか、
大阪城、元の石山本願寺がどうして篭城できたんだとか、私はいままで関心があまり無かった。
それで色々調べてると、当時の地形が今とは全く違ったものであったことがわかり、
その後のブラタモリなんか大変面白く見ましたよ。

年表を追いながら地図を描いていくと、はは~なるほどと思うわけです。
時々NHKの番組ではそういう絵をいれてくれたりもしますけど、最近は少ないですね。
単に資料をずらずら言われても中々理解が進みませんよ。

今回はウィキ抜粋の年表のテーブルはここに書きません。
またいずれ紹介する事になるかもです。
マップに関しては徐々に改良を加えていくつもりです。
現状はかなり大雑把にやってます。
学会に提出するような高度なことはやってなくてタダの遊びなので、
完成品が出来てから発表するというようなスタンスは持ち合わせていませんからね、私は。

マップの説明的なもの
 
下越地方は揚北衆の勢力地域と干拓事業以前の「」や船着場の「」などを書いています。
上杉家の越後と信州北部には川中島の合戦で見るお城を配置しています。
赤い矢印は幕末の官軍の上陸ルートを書いています。

鎌倉時代以前の干拓事業を全くやっていなかった新潟平野というのは殆どが湿地帯だった。
日本海側に波が運んだ土砂で自然堤防があり、そこから現在の平野部のヘリまで湖沼があっただけだ。

揚北衆とは阿賀野川の北側に鎌倉時代にやってきた武士の末裔達だ。
上越地方の上杉家というのはその後に入ってきた人たちだ。
この二つの勢力が戦国時代の新潟にいた。新潟という県庁所在地は江戸時代になるまでは
大勢の人間が居住するのに適した土地ではなかった。江戸時代の河川改修と佐渡金山の交易で
段々と発展し、現在の様な姿になった。

上杉氏(長尾家)は信州甲斐の武田と覇を競った。揚北衆もそこで活躍する。
新発田家重という武将は有名らしい。上杉謙信が無くなった後、
御館の乱という跡目争いが起こる。
跡目を継いだ景勝側に新発田家重は付いたが恩賞は殆ど無かった。
色々あって、新発田家重は反乱を起こすが、滅ぼされる。
江戸時代の新発田藩というのは織田信長の家臣団の武将の溝口氏がお殿様だった。

溝口氏は徳川家にとっては外様大名だ。それで新発田藩では朱子学が盛んになる。
朱子学と云うのは決して儒教ではない。打倒幕府の学問だ。
幕末になり、薩長に付くか徳川方に付くかは最初からは決まっていたようなものだった。
しかし、会津を中とする奥州連合に加盟することを拒んだ為に、城下の外を包囲され
焼き払うと脅されて、イヤイヤ奥州連合に加盟する。
しかし、倒幕意志は固く現在の新潟東港の西側の辺りで官軍の上陸作戦を支度する。
長岡藩は北と南から挟撃されて壮絶な戦闘の末に敗れ去れる。
官軍は阿賀野川の遡って会津へと進軍する。

私は小学校の時に修学旅行で会津に行った。
その見学ツアーのメニューに地元の老人の歴史語りを聞くというのがあった。
老婆は何処から来たと質問してきた。それで新発田だというと、
新発田もんは裏切り者だと嫌悪感をあらわにした。
当時、小学生の私にはさっぱり分らなかったけど、その裏切り者という言葉に
なにか新発田に対して悪い印象をもってしまった。
やっぱり何も知らなければ長岡藩とか会津藩が「カッコいい」と思うのが子供心というもので、
とてもガッカリしたような気がする。

戦国時代から幕末までを通して勉強してみると、その印象は一変した。
五十公野衆や加持衆は戦国時代は地元から水運で
一気に新潟まで行ったみたいで機動力が高かったようだ。
新発田重家の乱の新潟津攻防戦なんかもっと知れば中々熱くなれそうだ。
新潟津を落とされた重家は戦費が苦しくなって退くことになる。
結局さ、戦というのは経済力なんだよね。

新発田市というと全国的に全く知名度が無い。極たまに高校野球で甲子園に行った高校のお陰で、
私が上京したての時はよくその高校のイメージで語られた。
シンホッタとは読まずにシバタと覚えてもらっていたので、高校野球すげ~とリスペクトしてしまうよ。
まあ、あんまり特徴の無い城下町の様な印象を若い頃は持っていた。
観光バスがよく来ていたんだけど、何が面白いのかね~?とさっぱり理解できなかった。

新発田の有名なものと云うと、
堀部安兵衛
大倉財閥の発祥の地
なんていうのが全国的な話ですね。大倉関係の会社というのは私の十代の頃にはなくなっていた。
大倉翁関係の石碑を観ても何も感じなかった。越佐健児(えっさこんでい)もね。
近年、あそこの石碑がそれだったんだ、へ~なんて思ってる次第である。
私はそういうものは自慢して良いんじゃないかと思いますよ。
地元の子が全くそれを知らないなんて勿体無い。
私はそういう少年時代を過ごしてしまった。

大倉喜八郎と堀部安兵衛と似たところがある。
怒りで出奔し江戸で活躍するというプロットがね。
ほんの少し自分と重なる部分でもありますねw
郷土愛が芽生えて色々読んでみると、
自分もまた時代を読んでアクションを起こしているそういう気質の新発田の人だったんだと思う。


あそこを離れたことで記憶が美化されてることが多分に入ってると思うんだ。
そういう怪しい部分を含む郷土愛なんだけど、
我が郷土に誇りを感じてもらいたいと同郷の人には伝えたい。
弟の子供たちにあったら話を聞かせてあげたいと思います。
多分関心なかろうがねw; 
おっさんの話は退屈だなと思われない程度に話したいなw