大きな低気圧が発生して昨日の夕方から雨が降り風が強まった。
今朝も雨と風が強く、通勤時間帯が一番風雨が強まるというのでバイク通勤の私は少し早く家を出た。
結局、かなりやられてしまい、ヤードの開始時間まで車内で雨具を干していた。
8時過ぎには雨が上がっていたから、遅く出社できればよかったのに。

空は気持ちよく晴れ上がり気温があがった。 




午前、空バンを取りに行ったら配車明細に書かれている搬出場所が間違っていて取れなかった。
本船を見るとSA MUMBAIとあったので明細の他の部分を探してみた。
DG共同取りとHA-4取りがあった。
BCふ頭に寄港する船かもしれない。

SMMUMBAIscreenshot9292

それから気になってムンバイというインドの西側にある港を調べてみた。
地名に覚えはあったけど、場所を思い出せなかったからだ。 

GoogleMaps ムンバイ
インド マハーラーシュトラ ムンバイ


GoogleMapsで見てみると、そういえば世界史の教科書で見たようなきがしたが、
衛星写真で見るその都市はその教科書の白地図とは比べられない、
鮮やかで息づいた都市だった。

入り組んだ海岸線を南下し、南部の平野部を覗く。
無数に道路が行きかっている。そこにも沢山の人の生活があるんだろうなと思う。
インドの場合、現在でもカースト制度は生活に根ざしている。
だから日本と単純に比べることは出来ないのだけれど、
きっと人間の営みと云う点で自分と同じような誰かの生活が
そこにも無数にあるのだと思う。

新潟から上京し、横浜の片隅で生活を始めた頃、
電車に乗って車窓から目に入る車窓の風景は何処までも町が続いていた。
田舎から出てくるとそれが不思議でならなかった。
それは、学校のヒエラルキーの枠内とは比較に成らない広大な世界を意味していた。
東急東横線で通勤するのになれて、それが普通になった頃、あちこちの路線にも乗るようになる。
横須賀線や中央線、京王線、そのどの沿線でも無限に街は続いていた。

そしてバイク便を始めてレイルゴーの仕事で静岡、名古屋、大阪、福島、仙台、などで新幹線で行き、
飛行機にのって福岡に行く。 
電車とバイクのツーリングでなんども北海道を回る。
何処までも人の営みがあった。そして、そのどの場所もそこに住む人達:主人公が活躍する町だった。
それを認識できるようになるのは、時間が掛かったと思う。
頭で分っていることと肌身で感じるそういった事の差が埋まるまでの間は凄くしっくり来なかった。
横浜も大枠で見ると東京だ。
世間的な錯覚で東京が日本の中心であるかのような変なことを云う人が大勢いる。
最初に働いていた街は渋谷だった。その小さな地点の流行などが、
雑誌などで書かれたり報道されたりすれば、世の中の中心のトレンドであるような錯覚があるが、
実際問題、極少数の仕掛ける人や商売上の都合の問題でありがたがる要素なんて一つもない。
なぜならそこで供給される商品には限りがあって、
広く世の中にあまねく行き渡るような物量が無いからだ。
そのトレンド支えて居るのは、大手の大量生産と流通をになっている業者なのだ。
それが本物の渋谷で売っているものでない事を恥じることは無い。
彼らはそれを供給できていないのだから、彼らが恥じるべきだ。
東京、或いは横浜なんて場所はただの一地方で田舎に変わりない。
多くの住人はよその土地を知らず頑迷で因習に囚われた田舎者だ。

以前であれば雑誌やTVで取り上げる極々一地方の小さな動きに敏感になっていた。
今はネットの普及で必ずしもそうではないが、同様にネットのトレンドも非常に偏りがあるといえる。
大きな声と思われるようなものに左右されて、
それが世間の「みんな」の意識であるかのような錯覚を大勢の人が覚えている。
マスコミが取り上げるネットの声というものが一番間違っている。
彼らはネットの事が何も分っていない。
自分たちと同じメディアであるような無知から来る誤解を殆ど意識していない。

芸能ニュースの反応やネット右翼の暴論に右往左往するのはそういう無知から来る。

人間なんて、最初に書いたような町の広がりや人々の営みを理解する事に際限は無い。
そしてそれは非常に難しい。
中国を批判したりする人で、中国の山の奥のほうの人達の生活を意識できる人がどれだけいるだろうか?
インドの南部、インドの北部、西部と東部の人達の営みを想像できる人がどれ程いるだろうか?
日本という枠で理解したとか、日本というヒエラルキーの中のどの階層に属しているのか
意識できていたとして、じゃあ世界のヒエラルキーであなたと云う個人はどこの階層にいますか?
70億人以上いる中で、あなたの存在意義なんてほぼ全く意味が無いし必要ではない。
日本で一番の歌手になったとして、英語圏の歌手の一番になったとして、
世界という括りで見れば殆どの人生に価値なんてありはしない。
シリアに行ってその有名人が来たとしても、「へ〜、あっそ」という感想しかない人が大多数だろう。

私の、あなたの、その人生を価値あるものにしてくれるのはごく一部の周囲の人たちだけだ。
日本でとても有名になったとする。
有名になれば逆にプライバシーを守ることに大きな努力が要ることを考えれば、
更に不特定多数の人から指示されるよりも、
ごくごく周囲の人の方がその個人にとっては重要な人たちになる。


心無い人は大勢いる。他人を傷つける言葉を選んで、
弱っているタイミングを見計らってその言葉を投げつける卑劣漢が大勢いる。
先日、そんな話があって私は言いたい事が溢れたけど、一緒に憤ることしか出来なかった。
彼らは一見、善人を装っているし、友人が大勢いて自分こそが正義だと主張し良い人を演じながら他人を攻撃する。


金曜の朝のNHK第一放送のすっぴんという番組のパーソナリティーは高橋源一郎だ。
先週の番組の中で「友達病」の話をしていた。仕事をしながらであまり良く聞けていなかった。
それと以前の放送回のゲストの友達が何故要らないのかという話も聞いていなかったから、
内容を全部掴むことは出来なかった。ただ、その誰もが友達病を患っているというのは共感できた。

彼が3年間、学生のアンケートを取って秘密を書かせた。
どの年でも1/3の学生が同じ秘密を書いていたという。
それは、表面的には友達付き合いをしている誰々が嫌いで、本当は友達だとは思っていない、
というものだったそうだ。 
友達という思い込みは各人の持ち合わせていて、
その包含関係を描いてしまうと片思いの友達の方が圧倒的に多くなる。
それが認めたくない現実で、自分もまたそう思われていることに恐怖する。

友達が少ないと駄目な人で、友達が多いと良い人だ。だから友達が多いように振舞いたい。
社会にはそういうスローガンが溢れている。

そう思わない人もいる。けど、なにか他人をけなしたり評価する場面でそういう基準が常に
上位に来てしまうのは、多分、この私の住んでいる環境だけじゃない。
そういう本当は意味も価値も無いことを「人の徳」として欠くべくものではない、
という錯覚をかなり大勢の人が持っている。

ツイッターで考えてみると、フォロワー数が多いほどフォロワーさん個人について、誰が何を考えて何をやっている人か分らなくなっていく。
日常で接する人よりはるかに多くの人のツイートログを眺めていて、
誰が何を言ってるか、RTばかり流れていて誰が何に共感しているのか、把握できているだろうか?

それはリアルな人間関係においても同じ事だ。
個々人の脳の機能的な限界値は違うからそれが何人という事はいえない。
ただ、増えれば増えるほど輪郭はどんどん薄れていく。
だから学歴や会社のブランドやポストというような記号でなんとか認識しようとする事になる。
友達だと思っている人が実は自分が嫌いである。その逆も多い。
それなのにつながりを絶てない。それは自信が無いからだ。
相手が自分を悪く思っているかどうかわからず、好かれよう好かれようと上辺のことばかり
やっていれば本当の自分を隠さざるを得ない。お互いにそんな風なら、
互いに隠された上辺だけの誰かの事しか見えていない。
それが故に共通の敵を祭り上げて、
一緒にバッシングしている時だけは盛り上がれるような人が沢山居る。
「分るよね?」いわれて分らないと答えるのが怖くて「分る」という。
互いに分った風にしていて結局何も分っていないから、同じ話を繰り返し話す。

自分の方がより分っているというような話の上書きをする、
言われたほうは自分の話が聞き取られていない事が分るからまた同じ話を盛って話す。
盛られた話はインフレーションを起こしていく。やがて集団催眠のような状態になって
デマを形成し、それを事実だと思いこむ。

彼らに友達はいない。

友達がいない人ほど、友達が大切だと分っており、だから友達が多いフリをする。
相手を嫌った方が勝ちであるかのように、「お前は嫌われているんだぞ!」なんて
テンプレートの台詞が決まって出てくる。
彼らは発達が遅いか、発達障害がある。
自分の思い込みを現実や事実にしようとしてそう言っているのであって、
彼ら自身を客観的に批評しているのとは大きく違う。
彼らに友達はいない。 誰にも友達はいない。

そんなヘイトスピーチをする奴らのことが私は大嫌いだ。先に態度で見せている。
「俺はお前が嫌いだ。」お前らが言うより先に見せていることが分っていないのか?
「俺がどれ程怒っているかわかるか!?」と云う前に俺が既に怒っているんだ。
俺が怒っているから、お前はそんな風にいじけてるんじゃないか。
こんな事が時々ある。

友達のことを気にしている人たちは友達病だ。
それは特に誰かを気遣ったり気遣ってもらっていたりしない。
数量ばかりを気遣っている。
「沢山」とか「みんな」がなんとかっていって
自分がそこに属しているから正義だというような物言いの人達。

多分誰もがわかっている。友達の包含関係で、本当に友達であるといえる人は本当に少ないのだと。
人付き合いが増えれば増えるほどの相対的に自分の価値は低くなる。
有名になればなるほどに孤独に陥る。
だから大切なのは身の回りの人を大切に生きることだ。
それが押し付けがましいものではなくお節介でもなく、でも相手を気遣い事が出来ていて
相手も同じように利用するのじゃなくて自分を大切にしてくれる。
そんな関係は稀有だ。狙って出来る関係じゃない。
自分が誠意を持って付き合い、ぞんざいにする事も無いよう生活を続けていれば
一人か二人、いつかそんな人が現れてくれるかもしれない。

「XXは友達がいないんだぜwww」
「みんなから嫌われているんだぜwww」
そんな台詞を吐く奴は大抵は友達がいない。
そんな風に言われるのが怖い、その恐怖感から攻撃する側に居ようといているだけだ。
それは攻撃される前に攻撃することで自己防衛をしているという事だ。
そのテンプレートな煽り文句に乗っかる奴も友達はいない。
そいつらに友達は出来ない。そんな奴らと一緒にいても弊害があるだけだ。

そんなオトモダチは要らない。

八方美人に生きていれば誰とも仲良くなれない。
お友達病にかかっていないだろうか。 
誰かに気に入られようとおもねってご機嫌伺いしたり
調子を合わせて自分から歩み寄って分かってるフリをしたりして自分を殺していないだろうか。

だから友達がいない事を気に病むことはない。
遊び仲間なんかを除いて、誰もが殆ど友達(親友)がいないんだから。


インド西南部screenshot9291

インドの南西部。
道路が無数に走っている。
町や村が何処までも続いている。
たった一人の人間に生きる価値なんてありはしない。

70億人以上も人が生きていて、この中にたった一人の主人公なんていない。
全員脇役だし、全員主役で生きている。
友達なんてそもそもこの世の中には殆ど存在せず、
人は孤独な生物なんだ。
それを勇気を持って受け入れることが出来れば、
友達は出来るかもしれない。
48年生きてきて、大抵は一期一会の関係だ。
大抵離れていく人ばかりだけど残った人もいる。
だから俺はそう思うよ。
そして友達と云うのは特定の期間の限定の人付き合いのことかもしれない。 
友達というには数じゃないし、質かもしれないが、
もっと大切な事は時間軸で眺めて一緒にいる人かもしれない。
理解してもらうより理解することの方が大切だ。
理解する為には付き合う人が大勢いたら難しい。
30年後も同じ付き合いが残るよう、私は努力しようと思います。

「汝、隣人を愛せよ」などと言うと宗教がかってしまうけど、
表面の言葉の意味で言えばそれは正しいと思う。

人生は有限で出会える人は実際には少人数だ。その少人数をまず大切にできるだろうか?
私は困難だと思う。でも時間軸で考えていけばいつか誰かが大切な人になっているかもしれない。

そしてインターネットは有限の出会いを拡げてくれる可能性がある。
きっとインターネットも此処まで書いて来たことと同じで、
少ない人数と先ずは大切に付き合っていき、
時間軸の奥を拡げることで人数を増やすものだろうと思う。
FBでもmixiでもtwitterでも短期決戦で数の勝負をすべきじゃないと私自身は思いますね。